気の向くまま、足のむくまままず最明寺へ。ここは北条時頼(1227-1263)の墓があるところ。時頼は鎌倉幕府の執権、出家し最明寺入道と号した。ひそかに諸国を行脚、民情を視察、『鉢の木』の話は有名である。戦前は小学校の教科書にのっていた。封建主義を賛美するというので削除された。
そういえば、映画『無法松の一生』も主人公の少年が『青葉の笛』を歌うシーンを同じ理由で占領軍によってカットされている。ここは布袋尊のいますところ。体躯堂々と腹をだし常に袋を背負って喜捨を求めあるいたとされる。隣が小さな美術館といわれる蔵美術館である。
次ぎが寿老人のおわす温泉神社である。長岡ホテル、バスターミナルの横を通って右折、ゆもと屋と山田家の間の小さな露地をのぼりつめたところに神社があった。露地に入るところに立て札もなくまごまごした。探すのも勉強と考えた。社務所もなく、掃除も行き届かず見栄えのしない社がひとつあるだけ。長寿の神というので念をいれて頭をさげた。
元の通りにおりてきて、旅館と土産の店が軒をならべる通りを歩くこと20数分。いずみ荘を右折して源氏山に登る。三渓園、二葉などの旅館を左側に見てかなり急な坂を歩く。行く先は弥勒堂(弁財天)。宇治川の戦い(1184)で破れた源三位頼政(平安末期の武将,歌人)の菩提を弔うためにあやめ御前が生まれ故郷に帰り、草庵を結んだところ。弥勒堂にはあやめ御前の念持仏と伝えられる弥勒菩薩がまつられている。堂のそばに美人櫻があり、美しい花をつけると言う。すでに花は散っていた。立て札に『深草の野辺の櫻し心あらばことしばかりは墨染めに咲け』という上野峯男の歌が記されていた。この歌は平安前期の人、藤原基経(836−891)の死をいたんで詠まれたものという。弁才天は音楽、弁才、財福を司る神。
西琳寺の境内をぬけて長温寺に向う。西琳寺は源氏山の東麓にあって、弘法大師が弘仁元年(810)に開いたと伝えられる古刹。長温寺は福禄寿のいますところ。短身、長頭でひげが多く経巻を結びつけた杖をたずさえる。
その近く、永い階段をのぼったところに湯谷神社がある。祭神は大己貴命と小名比古命.この神社も掃除は行き届かず、御世辞にもきれいとはいえない。ここで押したスタンプの恵比寿神はえぼしをかぶり,両手にさおを持ち右手のさおには鯛をつりあげている。海上、漁業の神であり、商売繁盛の神として信仰されている。しっかり手をあわせる。
スタートしたのが午前10時すぎ、すでに11時30分をすぎている。ホテル茜の筋向えの「はしもと」のそばが有名というので三養荘を左に見てあやめ橋を渡らず狩野川放水路のそばを通ってそば屋にむかう。12時前というのになんと「はしもと」の前は10人ぐらい行列をつくっている。仕方なく近くの軽食店でコーヒーとサンドイッチをいただく。日ごろ歩きなれていないのでいささか疲れた。30分休憩して午後1時店をでて宗徳寺(毘沙門天)にゆく。掃除の行き届いた立派なお寺。この寺には金字で法華経が写経されている「紺紙金字法華経』10巻がある。表紙の見返しに金、銀泥の仏画がえがかれている。建治2年(1276)の年号が入っているという。万治2年(1659)に再興され、今は日蓮宗の寺になっている。
最後は大黒堂。国道414号にそって町役場の手前を右折する。ここも曲がり角がわかりにくかった。一角に木造のお堂がひとつある。大黒さまといえば頭巾をかぶり左肩に大きな袋を負い右手に打ち出の小槌を持ち米俵を踏まえる。
そばに3メートルの高さの忠魂碑がある.昭和3年11月建とある.書は陸軍大将一戸兵衛(青森・教育総監)。一戸大将は日露戦争の時少将で乃木将軍の三軍に属し、9師団とともに旅順攻囲戦に参加して武勇をあげた人である。めぐってみて感じたのは七福神にことよせてお寺、神社、堂に手をあわせ日本の歴史をひもとく「歴史散歩」ということであった。