第2次大戦の際、日米両軍の激戦が行われた硫黄島の話しを今度は本欄で書く.。東西8キロ南北4キロのこの島を米軍が欲しかったのは日本を空襲する際の護衛戦闘機の基地にするためであった。ここには日本軍の二つの飛行場があった。
米軍側の陣容がすごい。海軍大将レイモンド・スプルーアンス第5艦隊司令長官以下大小艦艇輸送船800余隻、この中には戦艦3、巡洋艦9、駆逐艦30、空母5がふくまれている。精鋭を誇る海兵隊が7万、海軍関係人員22万余であった。
日本の守備隊は第百九師団、栗林忠道中将(陸士26期)以下一万七千五百名、海軍部隊は27航空戦隊司令官市丸利之助少将(海兵41期)以下五千五百であった。
米軍は20年2月16日一斉に砲撃を開始、19日朝、海兵隊が上陸、摺鉢山に星条旗を上げたのは2月23日であった。(この山頂にはポートマック河畔ニある銅像と同じ星条旗を押し立てようとする海兵隊員の記念碑がある)上陸当初のはげしい戦いは米軍が打った電報を見てもわかる。「われわれはかって経験したことのない頑強な敵軍と衝突した.われわれは、毎日一ヤード一ヤードの血の前進をしている.死傷者はきわめて多い。一刻も早く医療品を送れ、一刻も早く救援せよ」(文芸春秋刊定本太平洋戦争「硫黄島玉砕」筆者金井哲より)
日本軍の司令部が内地に頼んだ武器弾薬補給の電報に対して輸送機が落下傘で落とした梱包箱の中味は僅かな雷管と竹やりであった(同)。
塩田章さん(陸士59期)は、初代の小笠原総合事務所所長で、同島を幾度となく訪れている。自伝的回想録「会者定離」に硫黄島のことにふれている。涙なくしては読めない。この島夕陽の美しさは格別であると言う。「十重二十重にかこまれて、完全に勝利の望みなき戦いを月余にわたって展開した栗林兵団の将兵が、しかもこの美しい夕陽を毎夕ながめたのではなかろかと思うとき、なんとも堪えきれないものを感ぜざるをえなかった」としるす。
また、生き残った人々の記録によれば、どの壕の中でもみんな「生きたい、死にたくない、女房に会いたい、子供の顔がみたい」と話しあつっていたとも塩田さんは述べている。
そういえば、戦後間もなく同島を取材した毎日新聞の特派員も洞窟の壁に「お母さん」の走り書きあったとつたえていた。
最後に塩田さんの歌を紹介する。
みはるかす 大海原のその果てに
たおれし戦友を 偲びつつ航く (柳 路夫)