太平洋戦争の捕虜第一号,酒巻和男さん(海兵68期,海軍少尉)が死んだ(1999年11月29日)と聞いて、収容所のトラブルを捌いた話しを思い出した。捕虜収容所はさ
まざまなトラブルがあるようだ。酒巻さんは次のように諭したという。
「約束のない自由は放縦に変わり,醜い自我は互いに衝突する。今や私たちは非戦闘員であり、国際条約と人間性の道徳観に基き,戦闘的暴力を避け、ゼネバア条約の規定事項を遵守する立派な日本人にならなくてはならない。貴重な生命を救助した米国当局へ感謝し,一度捨てた生命を更にも一度日本のために志ざそう。捕虜である日本軍人としてのまた新しい世界を建設する世界人としての義務は,私たちがより立派な正しい人間としての垂範者となることではなかろうか」(酒巻著「捕虜一号」1949年新潮社刊)
酒巻さんは1941年(昭和16年)12月8日、ハワイ真珠湾を攻撃した第一次特別攻撃隊の特殊潜航艇の艇長であった。武運拙く捕虜となった。
「捕虜の文明史](新潮社刊)の著者吹浦忠正さんに対して酒巻さんは「自分も最初は顔を傷つけて人相を変えたり,2年余り写真を取らせなかったけれども,やがて一つの考えに到着した。そして後からくる自暴自棄の者たちに死ぬなら大義に死ね。つまらぬトラブルで生命を失ったり収容所で自殺するのはバカのすることだ」と説得したとのべている。
昔から人間を鍛えるのは貧困、大病,牢獄といわれている。4年余りにのぼる捕虜生活は酒巻さんを大きくさせたようである。帰国後はトヨダに入社、ブラジルトヨダの社長、豊田総建社長などを歴任、ビジネス戦士として活躍された。
第一次特別攻撃隊の他の4人の艇長たち,岩佐直治大尉(65期),横山正治中尉(67期)、古野繁実中尉(67期),広尾彰少尉(68期】は他の5人の乗組員とともに、軍神とあがめられた。その慰霊碑は酒巻さんらが訓練をかさねた愛媛県南部の佐田岬半島にある三机湾ほとりにある。
戦争は無残にも若者たちの運命をさまざまに翻弄した。毎日新聞の記者に「これまで生きてきた心の支えは何だったのか]と聞かれて酒巻さんは「人間の尊厳だね]と答えたという(1月9日付,毎日新聞)。享年81才だった。(柳 路夫)