2013年(平成25年)10月20日号

No.589

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(505)

重光葵を偲ぶ

 毎日新聞社会部長であった森正蔵の著書「あるジャーンリストの敗戦日記」(ゆまに書房)の昭和20年9月2日(日曜日・曇り時々晴)に次のように綴られている。「わが国史のうへに永久に大きな汚濁をのこすべき国辱の日である。陛下はその使臣に対して降伏条件をしるした文書に調印すべしといふ勅語を賜ひ、その調印式がわが代表使臣重光外務大臣、梅津参謀総長と連合国代表マッカサー元帥その他とのあいだで行われたのである。(略) 降伏調印式は午前9時、横浜湾外の米艦ミズリー号甲板で行われた。その時刻を期して10機前後からなるB29の編隊が幾つとなく帝都や横浜や東京湾上の上空に飛びまはるのであった。調印式は20分で終わり、各国代表の署名が済むと、式場のマイクロホンから連合国側を代表するマッカサーが放送した。勝った者と敗れたものとの身分が明らかに世界の隅々まで伝達されたのである。(略)」(この日の日記には米兵が日比谷公園で自転車を強奪したり神宮外苑を散歩している兄妹を襲い、兄を射殺したりする記述が出ている)

 梅津美治郎参謀総長は当初「降伏調印式出席は武人の恥辱」と嫌がったといわれる。重光は「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉えたという。その際、歌を詠む。「願くは御国の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」。

 梅津、重光ともにA級戦犯として昭和21年4月29日の天長節に巣鴨に収容される。重光は「爆弾のまた落ちて来し天長の芽出度かるべきその同じ日に」の歌を作る。実は14年前の昭和7年4月29日の天長節に上海北四川路の新公園で行われた観兵式の後の祝賀会の席上、爆弾を投げつけられ右脚を失っている。当時は中国駐在公使であった。東京裁判では梅津は終身刑の判決を受け、昭和24年1月8日米陸軍第361野戦病院で死去する。重光は禁固7年の判決を受けた。ソ連検事の評言は「日本の侵略的対外政策の先導者」であった。梅津にする評言は「対ソ侵略計画の直接指導者」。重光は昭和23年12月23日東条英機大将ら7被告が処刑された朝、『黙々と殺され行くや霜の夜」と哀悼の句を捧げた。心優しい重光はニュールンベルク裁判で絞首刑の判決を受けたゲーリング空軍元帥(処刑2時間前独房で自殺)が判決後、獄中に妻に連れられて訪れた6歳の娘が指で算術をする姿を見て泣いたという新聞記事に歌を作る。

 「6歳の娘の顔をゲーリング 母と見くらべ顔をそむけぬ」
 「男泣く淋しき秋やゲーリング」

 重光は昭和25年11月仮釈放され、昭和29年以降鳩山一郎内閣の外相を務め国連加盟を果たした。「外交の使命は国家の安全と国民の繁栄に堅実に寄与するにある」を信念とする重光は4度の外相を経験する。新任地に着任すると必ず便所と図書室を改造し記録部を作った。「記録なくして外交なし」が彼の口癖であった。昭和32年1月26日湯河原の別荘で急逝した。享年69歳であった。

 国連加盟を果たし政府を代表して国連加盟演説した重光葵が詠んだ「霧は晴れ国連の塔は輝きて高く掲げし日の丸の旗」の歌は外交官賛歌でもある。

 

(柳 路夫)