2013年(平成25年)10月20日号

No.589

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茶説

きのうの敵はきょうの友

  湘南 次郎

 先日、映画「飛べ!ダコタ」を観る機会があった。私が興味を持ったのは昭和21年(1946)1月14日より話が始まっていること、実話だったことだ。その日は私が、20年8月15日に終戦をむかえた陸軍士官学校より自宅に帰ってきてから初めての20才の誕生日で、まさに第二の人生の出発であった。そのころを思い出し、時代考証や日本人の生き方、考えかたに興味を持って鑑賞することにした。

 物語の事件は当時の新潟県佐渡郡高千村(現在佐渡市高千)の海岸で起こった。英国要人の使用する航空機「ダコタ」が海岸に不時着する。機は頭を砂浜突っ込み、中には恐怖におびえ警戒する乗員8名がいた。村民も6か月前まで敵対していた英国人に言語もろくに通じず、驚き困惑したが、純朴な村民は彼らを無事救出し、温かく迎い入れた。そして、ノタ(大しけ)に会わぬよう機体も引き揚げ、やがていろいろな障害を乗り越え、日英交流の絆が生まれた。大人子供、村民総出で手づくりの滑走路をつくり、ついに飛行機無事滑走することに成功、飛び立っていったという人種、敵味方を越えた国際理解と交流の感動的物語である。しかし、そのなかには夫がインパール(インド、当時英国領で英軍と悲惨な戦闘をした)で戦死した未亡人もおられ、けなげもにも一緒に協力するのは涙をそそる。

 また、脚を負傷して帰ってきた海軍兵学校出身の青年だけは、村民に同調できず英人を敵として反抗する。このことについては、我が身を省み、血気にはやる当時を追憶した。私は終戦で帰って来てから、半月ぐらいか、新宿駅で初めて米軍を見たときの敵意を忘れない。今まで鬼畜米英、滅私奉公と叩き込まれた教育は、そんな簡単に転向できるものではなかった。そんなのを見ていた父は危険を察知したのだろう。徒歩20分ほどのところに200坪ばかりの荒地を借りてくれ、近くに住む、共に悲憤慷慨(ひふんこうがい)、時局を談じ合った従兄(時の右翼、大東塾生)と二人、朝から晩まで、いもの粉をだんごにして蒸したものを弁当に、開墾させられた。また、精力善用の親心もあったのであろうが、当時の親の命令は絶対だった。余談だが、得々と背丈より高い篠竹を家まで引きずってきて燃料にしたが、薪がないので喜ばれるどころか火力が強く、当時のやわなアルミのなべ、かまは、みな溶けて穴があく失態を演じてしまった。とにかく映画の海兵出の青年は、最後には転向するが、あの気持ちは今の青年諸君には判らないだろう。私には往時をしのび、彼の気持ちは痛いほど判った。

 必要な500mの滑走路は、砂浜をならし、近村の人たちや子供までが協力して石を運び、並べて押し固め40日をかけて完成する。元来、日本民族は草食で性格は優しいのだそうだ。いくさが終われば敵も味方もなしという美風があった。奇しくも別れに子供たちが、日本のお別れの歌「蛍の光」(原曲は英国スコットランド民謡「オールド、ラング、サイン」であった)を合唱して英国人を送る。その曲は英国人たちに故郷を呼び起こさせるに余りある感動であったろう。

 私は佐渡へ行ったことはないが、出来れば折を見、西海岸の現地を訪問し、古老にお会いして当時の状況をお聞きしたいと思っている。映画が終わった帰途は、さわやかな秋の風が吹き抜ける平和な夕暮れであった。