2013年(平成25年)10月20日号

No.589

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安全地帯(409)

相模 太郎


蒙古襲来(元寇)余聞


 文永11年(1274)10月5日暗雲立ち込める対馬(つしま)の海は元(げん)(蒙古)と、元に脅(おど)され無理やり参戦させられた高麗の連合軍船で覆われた。第一次日本国侵略、蒙古襲来である。兵士28,000、水夫15,000軍船900隻の大遠征軍である。時の鎌倉幕府執権は北条時宗であった。翌6日より日本の対馬防衛軍を、14日には壱岐を襲撃して玉砕させ、北九州には19日より今津長浜に上陸を開始、博多から箱崎に展開し、日本軍と激戦のうえ占領、鎮西のかなめ大宰府占領を狙った。わが武士も獅子奮迅、奇襲攻撃、敵味方損害は多かったので敵軍は20日夕刻、一旦、再起をはかるためか、軍船に兵をもどしてしまう。そしてその夜、台風(世に神風という)が襲来、敵軍は全滅する その後、再度の朝貢を促す元の使者に、時の執権時宗は毅然として使者を斬首した。元(げん)の東路軍は、弘安4年(1821)5月26日再び対馬・壱岐を攻略し、博多沖より日本軍が沿岸に防塁を築き、備え万全なのを発見した。そのうえ九州西北の松浦市鷹島沖で合流の予定だった支那で編成した南宋の江南軍がなかなか姿を現さず、疫病がはやりだし、兵糧にもこと欠き、船体は破損し出した。6月末になってやっと合流した推定合計は、兵力140,000、軍船4,400隻であった。7月27日鷹島を激戦のうえ占領、東進して船上で博多湾攻撃の機をうかがっていた矢先、7月30日再び台風に遭遇、壊滅した。以上がご承知の蒙古襲来、元寇の概略である。

この事件の関連のエピソードを少し紹介する。

○長門(山口県日本海側)の状況

約300隻の軍船が押し寄せたが、上陸等の詳細は判っていない。これを重く見た幕府は防備を強化し、北条宗頼による長門探題を置く。鎌倉北条幕府滅亡まで続く。

○水城(みずき)について

日本書紀に「筑紫に大堰を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」現在、鹿児島本線博多より六つ目の小駅「水城」は、その土塁を切断して駅がある。左右に土塁が連なっている。天智3年(664)に大宰府防衛のため、築かせた高さ10m以上、幅80m、長さ1.2q土の防塁である。その博多側には御笠川より水を引き、幅60m、深さ4mの堀があったのが発掘で判った。時の日本政府は、朝鮮半島百済(くだら)と同盟を結び、新羅(しらぎ)、唐の連合軍と戦うため出兵したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで壊滅的打撃を受け日本国へ逃げ帰り、敵の攻撃を予想し築かせたものであったが、連合軍は攻めてこなかった。元寇には幕府鎌倉もこれを修復して利用することにしたのだが、幸い今回もそれを使わずにすんだ。今、残る土塁は鉄道、国道に切断されているが、かつての威容は、近くの大野城とともに残っている。駅のホームはその断面にある。

○石の防塁(ぼうるい)について

博多湾周辺の各所に残り、発掘されている。大雨の中、3か所を実見する。まさに頼山陽の「筑海の颶気(ぐき)天に連なって黒し、海を覆いて来(きた)る者は何の賊ぞ。蒙古来る、北より来る」だ。海は暗く、松林の連なる無人の海岸は何かを語り感無量。特に博多湾西部の今津長浜と生の松原防塁は保存状態が良く、海側に急傾斜、陸側はなだらかに工夫している。建治2年(1276)幕府が各九州の武士に命じ、禄高に応じ長さを決め、ノルマをかけて積ましたので、積み方、石の大きさが違うのが雨にぬれ、よくわかる。高さ1.8m〜3m、頂上幅1.8m〜2.4m、長浜だけでも3kmに及び、敵に脅威を与えるのに有効だった。国宝「蒙古襲来絵詞」にも騎馬武者竹崎季長の背後に防塁が描かれている。だが、意地の強い武士はわざと防塁の前へ出て陣を張ったという。

○軍船について 

筥崎神宮、櫛田神社の境内には、海から引き揚げた石造の碇(いかり)が展示されている。軍船は本国では造らず、占領した朝鮮、支那で調達し建造と思われる。高麗(こうらい)をおどし、かつての朝鮮半島の山の木を根こそぎ調達、ハゲ山とする。造船に次ぐ造船で、船の質も悪かったらしい。死に物狂いの武士に対し、無理に先に出される高麗軍に戦意があろうはずもない。平成24年6月26日読売夕刊によれば、鷹島の海底に元船の船底の背骨キールに使われたと思われる漆喰の破片を発見、船底の長さは25m以上あったと推定された。

○蒙古塚

北九州各地に元軍の戦死者、溺死者を葬った塚があるが、鎌倉五山の一寺、円覚寺は蒙古襲来の敵味方供養のため、北条時宗が開基で建立した。

○元の戦法

「てつはう」と称する鉄の玉のなかに火薬を詰め投擲する。破裂する威力、爆発音がすごい。まだ、日本に火薬はない。鎌倉武士の脅威は想像を絶したろう。こちらでは卑怯というが、短い弓矢に毒を塗って雨あられのように射ってくる。お互い名乗を上げの一騎打ちはしないで人海戦術、集団で戦う。

○使者斬首

時宗は度重なる使者を何度か斬っている。湘南片瀬の龍口寺前には元の使者斬首の刑場跡があり、近くの常立寺には使者の墓も残る。かつて横綱朝青龍も供養の墓参に来たことがあった。

○マルコポーロ

「東方見聞録」を書いたヴェネッツア共和国の商人で探検家、1271~1275まで元に滞在したとされ、元の世祖クビライに「黄金の国ジパング」と宣伝し、日本侵攻を企てさせたという説がある。火薬、スパゲティ(うどん)、陶器などを故国へ持って帰るのを、かつて、米映画「マルコポーロの冒険」で観た。

○恩賞

初めての外敵侵攻を撃退するが戦った武士に与える恩賞の土地がなく苦慮、その始末に10数年を要したらしい。これが鎌倉幕府滅亡の遠因になったのは間違いない。そして時宗もすべてを燃焼し、34才の若さでこの世を去り、円覚寺に埋葬された。

 奇しくもこの稿を書き始めたのは、対馬に元軍が襲来した10月5日であった。

(写真は筆者が実踏で撮影)

筥崎神宮(元寇で焼失、再建)

 

神宮内の蒙古軍船の碇石

 

今津長浜発掘の防塁の一部

 

左―水城(みずき) 中―大宰府政庁跡 右―常立寺(藤沢市)