2013年(平成25年)2月10日号

No.564

銀座一丁目新聞

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追悼録(480)

毎日新聞元主筆・渡瀬亮輔さんをしのぶ

 

 立春を過ぎた冬の暖かい日差しに誘われて府中の自宅から30分の距離にある多磨墓地へ散歩に出かける(2月5日午後)。目的は毎日新聞元主筆渡瀬亮輔さんの墓参りである。1月末に開かれた「サンデー毎日のOBの新年会」で野村勝美君から「渡瀬さんのことを知りませんか」と質問されたからである。入社当時渡瀬さんは編集主幹であった。事件に追われて上司にはほとんど興味がなかった。仕事に夢中であった。遅すぎたきらいはあるが毎日新聞に尽くした先輩に敬意を表するのも当然であろうと考えた。

 墓は小金井口の近くにあった(23区2種7側)。真正面の墓が父渡瀬常吉さん。昭和19年10月14日京城にて没。昭和25年10月亮輔之建とある。父親はキリスト教の伝道師であった。墓表には「埋骨の南山われに紅舞して」の句があった。その右側に渡瀬亮輔さんの墓。昭和53年1月14日死去、享年77歳。しばし手を合わせてご冥福をお祈りする。

 手元にある毎日新聞百年史、先輩たちが出された本などで渡瀬亮輔さんの足跡を調べてみた。大東亜戦争開戦日をスクープした政治部の後藤基治さんの「戦時報道に生きて」(非売品)によると昭和13年6月武漢三鎮の攻略作戦が始まった際。毎日新聞は多数の記者を現地に派遣した。南京に取材本部が置かれ、渡瀬亮輔さんがその総指揮者となった。時に37歳であった。徐州を抜いた日本軍は国際世論に訴えて和平の誠意を印象付けようと英米のジャーナリストを招いた。国内の新聞、雑誌も特派員を送ったからその数1000名を超えたという。毎日新聞は本社機まで動員,原稿の送稿にあたった。この本に興味あるエピソードが紹介されている。漢口が陥落(11月下旬)した後、高石真五郎会長が漢口で東久邇宮殿下(稔彦王中将第2軍司令官・陸士20期)にお目にかかった際、殿下が「ここらで和平を提唱してはどうか」と言われた。「そんなことをしたら大変なことになります」と申し上げたら殿下は「新聞でもだめか」と残念そうな顔をされたという。なお東久邇宮様は敗戦後の昭和20年8月17日から同年10月15日まで総理大臣を務められた。

 毎日新聞百年史には渡瀬亮輔さんの真骨頂が紹介されている。「ニュースは大きな視野に立って分析と展望が要求される」というのである。渡瀬さんが南方課長のころ三原信一広東支局長(昭和13年11月から昭和18年7月まで)が所管の中国、日本軍が占領していた南方地域だけでなく広く世界各地の戦況や欧米諸国の動きを打電、他社を圧倒した。「三原の広東特伝」と語り草になっている。それでも渡瀬さんは「広東は何も書かない」というのが口癖であった。新聞報道には報道、解説、評論の三つがある。日常のニュースにおわれるのではなく、ニュースを分析してそこから時代に与える教訓、示唆、将来への展望などを書けということであろう。37,8歳のころこのような考えをしているのに敬服する。私はその年齢のころデスクとして日日のニュースを処理するのに精いっぱいであった。毎日新聞には立派な人物がたくさんいる。うれしい限りである。


(柳 路夫)