2011年(平成23年)8月1日号

No.511

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追悼録(425)

同期生の死について想う


 同期生・医師の北俊夫男君から陸士59期第1中隊1区隊の「想い出」(平成4年5月刊)を貸していただいた。245ページ。36人が執筆している。北君は「はしがき」に「寝食を共にしつつ学科に術科に、はたまた心身の鍛練に日々を過ごした者達の、軍隊時代の記録であり、又その後国敗れ青年の夢も破れることにより各々道を異にすることを余儀なくされたが、戦後それぞれ野道で国家再建につくした記録も書かれている」と述べる。私達が23中隊1区隊史「平成留魂録」を出したのは平成16年10月であった。ページ数219,12人が執筆した。我々が戦後をどのような思いで生きたかを綴ったものであった。

 1中隊1区隊史を面白く読んだ。大連2中で一緒であった佐藤尚徳君(2年から熊本幼年学校に進む。平成17年11月8日死亡)の論文も見える。この中で佐藤は「長髄彦の一族の後裔である」と書いている。彼からよく聞かされた話である。だから幼年学校でも陸士でも“要注意人物”と見られたという。長文の家系図も送られてきた。佐藤君の祖先は戦国末期頃、秋田四郎兵衛と名乗ったので今後は「俺も秋田四郎と名乗る」と手紙の差出人も「秋田四郎」を使った。59期生の名簿も括弧して秋田四郎とある。彼の論文を読むとはっきりと「昭和天皇の全ての言動に鑑み、天皇大元帥としてのご立派な一生を思い明治大帝に勝るとも劣らない大王」と表現している。彼も天皇について我々とたいした考えの違いがあるわけでない。少し変わった人物だと思っていたがそうでもないことが今度初めて分かった。

 福屋憲昭君が吉川芳郎君(3中隊3区隊)について触れている。私が毎日新聞西部代表の時、福岡地検検事正であった吉川君(平成3年8月11日死亡)とよく付き合った。福屋君は昭和21年4月関西大学法学部で吉川君と一緒であった。吉川君は大坂の市岡中学から4年修で陸士に入った秀才。大学2年在学中、全国陸士出身者の先鞭を切って高等試験司法科(現在の司法試験・司法修生2期)に合格する快挙を成し遂げた。関西の同期生は吉川君の後を追えと、頑張り約10名が司法試験に合格し、判・検事、弁護士となり、関西法曹界に有力な地位を占めることが出来たとある。

 吉川君とは昭和57、8年頃、勝野高成君(8中隊1区隊・当時西日本ビル社長)浅山五生君(24中隊3区隊・当時三菱鋼業セメント福岡支店長・平成7年10月9日死亡))と中国研究会をやりゴルフを楽しんだ。吉川君は気さくで万事に明けぴろっげであった。検事らしくない検事であった。その後弁護士に転じた。戦後66年、同期生があの世に旅立ってゆく。気がついてみれば親しく付き合っていた同期生がいつの間にかいなくなってしまった。今年の10月20日東京で全国大会を開く。せめて300人ぐらいの同期生が集まってほしい・・・


(柳 路夫)