2010年(平成22年)12月1日号

No.487

銀座一丁目新聞

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追悼録(401)

黒岩義之さんの遺作「私なりの歴史認識」


 毎日新聞のOB福島清さんから黒岩義之さん(印刷局長・総務局長など歴任)の一周忌の写真が送られてきた。それに黒岩さんの遺作「私なりの歴史認識」のCDがあった。黒岩さんが毎日新聞の労組の委員長の時、福島さんは組合の執行部にいた。写真に添えられた福島さんの文には『10月29日、奥様、ご親族、広島幼年学校第46期生の皆さん約40人が集い、八王寺・上川霊園に眠る黒岩さんの墓前で一周忌が開かれました。賛美歌。献杯。そして「延別離」を歌って「黒岩義之さん安らかに」と祈りました。墓前には黒岩さんと並んで黒岩さんの1ヵ月後なくなられた長男・洋さん(NHKデレクター)の遺影が微笑んでいました』とあった。一周忌の法要には黒岩さんが浜松支局長時代の支局員であった稲葉康生さん(元論説委員)も参列したという。誠に福島さんは律儀な方である。

 毎日新聞在職中、陸士2期先輩の私は黒岩さんとは口をきいたことがあるが、直接仕事をしたことはなかった。もちろん彼が広幼・陸士61期生・東大文学部卒であることは知っていた。CDを見て初めて彼の生き様を知った。大連二中時代の親友・西村保君が高知高校出身・阪大の医学部を出て産婦人科の医者になり共産党に一時入党したこともあるので同じ高校を出て同じようの道を辿った黒岩君と話せば話が弾んだことであろうと思う。今やせん無いことである。

 CDに納められた『私なりの歴史認識』は彼の勉強の成果である。「或る女性への手紙に寄せて」という形式でまとめたものでB5版、(第53信)1200ページの大作である。敬服する。「東京裁判を考える」(第9信・第10信・第11信)について私なりの感想を記したい。

 黒岩さんの「東京裁判」についての結論は次のようである。「『歴史』という鏡に照らして私は、東京裁判がどのような理屈を付けようと正義に欠ける不公正な裁判であり、当初の理想、理念はともかく、結局は勝者が敗者を裁く結果に堕してしまったと思わざるを得ません。これが多くの本を読んで得た感想です」。私も全く同感である。東京裁判はGHQが日本を「占領中」に行った裁判である。新しく『平和に対する罪』を新設して被告らを『事後法』で断罪した。黒岩さんは映画「プライド 運命の瞬間」を巡る朝日新聞とサンケイ新聞の論争を紹介しながらこの問題を論じる。次いで平成8年12月8日間フイリピン・ルソン島の慰霊の旅を書く。この戦線での日本兵の餓死の数40万人“屠殺場の羊”のような状態で死んでいった日本兵士。毒薬注射による多数の傷病兵の死。黒岩さんは暗い気持ちになりながら何故戦後日本人は当時の政府、軍部の指導者の責任を糾弾しなかったのかと問う。劇作家・木下順二の発言を引用する。「残念に思うことが私にはたくさんある。・・・その痛恨の度合い、いわば“痛恨度”の最も強い物が、私の場合戦争協力者であった人々の責任追及を、それがまだ実効を持ち得た敗戦直後のある期間内に、自分が怠ったということです」多くの人々と腕を組んでそれをやっていたならば東京裁判の判決後10年もたたない時にかってA級戦犯容疑であった人物が日本国の首相になることを防ぎ得ていたかもしれない。日本国の共和制という議題を日程にのぼせることも出来ていたかもしれない・・・と言う(昭和53年5月東京で開かれた東京裁判の「国際シンポジュム」での発言)。どうであろうか。占領中では日本人が自らの手で当時の軍部・高官を裁けたであろうか。媾和条約が発効直後でさへ自主憲法制定の声が出たもののそのまま今日に至っている。折に触れて黒岩さんの遺作のCDを読み勉強したい。

(柳 路夫)