2010年(平成22年)11月20日号

No.486

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追悼録(400)

『外信部長の追放劇』の真相


 毎日新聞元外信部長・大森実さんは今年3月26日死去した。享年88歳であった。外信部長としてベトナム戦争のさなか戦争の実態を描いた「泥と炎のインドネシア」(昭和40年1月4日から2月17日まで38回)を連載、世界的反響を呼び、毎日新聞の紙価を高からしめた。間もなくして大森外信部長は毎日新聞を去り、その後、評論家として活躍された。

 連載企画『泥と炎・・・』はいまでも折に触れ語られる。大森さんが毎日新聞を辞めたのは昭和41年1月13日。当時は突然の退職と感じられた。ベトナム戦争報道で読者を熱狂させてからまだ1年も立っていなかった。社会部のデスクであった私もそう感じた。大森さんがハノイに乗り込んで書いた米軍機がゲアン省キンラッポにあるハンセン病の病院を爆撃したという記事(昭和40年10月3日)に米国側から圧力がかかっているという話は聞いた。毎日新聞もだらしないものだと思っていた。

 友人北野栄三さんが近著「メディアの光景」(毎日新聞刊・2010年10月10日発行)の「外信部長追放劇」でその間のいきさつを明らかにしている。1965年(昭和40年)10月5日、ライシャワーアメリカ駐日大使は大阪で開かれた大阪日米協会と関西アメリカ商工会議所の昼食会でスピーチをした後の記者会見の席上「日本の報道機関はベトナム情勢について均衡のとれた報道をしていない」と発言して「米軍機の病院爆撃−北ベトナム側の記録映画を見る」を書いた大森を批判した。朝日新聞の秦正流も同じような記事をハノイで書いているのだがライシャワーは朝日と毎日を意識的に分断する。大森は田中香苗編集主幹に社説でライシャワーに強硬な反論を主張する。田中主幹は首をタテにふらない。それどころか、田中主幹は「誤解をとく」ために一人でライシャワーを訪ねる。それでは降伏ではないか。大森は社外のマスコミ批判の高まりと同時にそれに呼応するかのように社内の古い勢力による大森への反感と嫉妬が日増しに大きくなっていることを感じた。ライシャワーは家族あての手紙にこう書いた。

 「大阪の記者会見で、私は日本第2位の毎日新聞(発行部数360万部)の記者を名指しで非難したが、先日ここの編集主幹が訪ねてきた。従来どおりの友好的関係を確かめ、偏見のある記事について事実上謝罪をした」「今回は明らかに私の勝ちだ」(10月24日)=「ライシャワー大使目録」講談社学芸文庫=

 その後ライシャワーは朝日新聞の秦正流にハンフリー副大統領とラスク国務長官の会見を工作する。米国のベトナム戦争の立場をよくするためである。この会見を佐藤栄作首相が支援したのをライシャワー機密電報が明らかにしている。

 毎日新聞の社内では元外信部長林三郎(編集局顧問)が「ベトナム断層」(1966年1月8日から8回連載)を書いた。その内容は大森が築いてきたベトナム報道の多くを否定するものであった。メヌエル氏病の悪化で外信部長を休暇扱いにして療養中であった大森は、これで留守を託した部長代理の山内大介や信頼していた社内の同志たちにも裏切られたと感じ、気力も折れたと、北野栄三は綴る。

 大森自身は「中央公論」1970年5月号の「『東京オブザーバー』暁に死す」で次のように心境を吐露する。「ライシャワー氏の不当な非難に対して、堂々と社説をもって対抗すべきだと主張して譲らなかった私は、毎日新聞という船を、一人の記者の力で、巨大な風に向かって突っ込ませようとした世間知らずの男であったかもしれない。毎日新聞側から『お前は、猟師山に入って山を見ずだ』とたしなめられたが、その言葉に憤慨してしまった私であった。風当たりを避け一歩後退二歩前進するという兵法を理解できなかったジャーナリストであった」

 私は毎日新聞が懐が深ければ有能な大森記者をかばいきれたのではないかと考える。当時、毎日新聞上層部にはそれだけの大きな器量をもった人物がいなかったということであろう。退社後の大森さんの活躍を見れば毎日新聞にとって必要な人材であったことは間違いない。


(柳 路夫)