2009年(平成21年)4月1日号

No.427

銀座一丁目新聞

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追悼録(343)

弁護士桑本 繁君を偲ぶ

 弁護士、桑本 繁君(昨年10月10日死去、享年77歳)を偲ぶ会があった(3月23日・東京新橋・新橋亭)集まったのは中学時代の母校・大連2中の17回生から24回生までの16名で彼を偲ぶと共に大連での中学生時代の思い出を語り合った。彼と同級の23回生からは8人も出席した。23回生は昭和19年4月に大連2中へ入学したのだから在学したのはわずか1年5ヶ月にすぎない。その後は引き揚げ、内地の中学校に編入学して進学、それぞれの道に進んだ。いずれも親たちは全財産を捨てての帰国であったので戦後は苦難の連続であった。それだけに絆は固く23回生は毎月の23日に同窓会を開いている。
 桑本君との縁は私が2000年10月大連2中の同窓生の集まりである「光丘会」の会長になった際、幹事・事務局長として京橋にあった法律事務所を事務局としてくれたからである。
 年に2度出す会報誌「晨光」の編集の際、彼の事務所で編集委員が4、5人集まり楽しく仕事をした。彼の仕事ぶりは「簡にして要を得たもの」であった。2004年10月に「光丘会」を解散したので「晨光」の編集作業はわずか8回だけであった。ある時、「先輩が会長の巻頭言を批判していますがどうしますか」と言ってきた。「言論は自由、載せるべきでしょう」と答えた。気配りある人であった。そういえば、事務局に残された大連2中や大連に関する資料を玉川大学へ寄贈したのも彼らしい配慮であった。20回生の長田和臣君が会社のトラブルで桑本君に相談して謝礼を払おうとすると「先輩からとれません」と固辞した。その後4,5回桑本弁護士に相談したが彼の態度は変わらなかったという。律儀な方でもあった。23回生の小暮克己君は桑本君とよくゴルフをしたそうだがマナーの良い、穏やかなプレーであったと語る。
 23回生の徳島紳義君は税務署員であった父親が配給制度を批判して憲兵に捕まった話をする。このため、ひとつ上の兄が幼年学校を受験一次で合格しても面接で不合格になった。徳島君は勤労動員も拒否され、「戦争」にいじめられた。平和を大切にしたいという。このような同窓生もいたのをはじめて知る。24回生の白石猛君は中国での白石家の歴史「祖父と大連」を記録した長文の原稿を桑本君へ出したところそのまま4ページにわたって載せていただいて喜んでいる(「晨光」39号最終号)。この文を読んだ友人がもう少し書き足して出版してはどうかという話が来ていると報告した。この年齢になると先輩後輩の年齢差は殆ど分からない。時の過ぎるのを忘れて語り合った。
 

(柳 路夫)