2009年(平成21年)2月1日号

No.421

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安全地帯(239)

信濃 太郎

森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」に思う(大正精神史文学編)

 乃木希典大将の殉死は文学にも影響を及ぼした。森鴎外に「興津弥五右衛門の遺書」の作品が生まれた。この歴史小説は大正元年10月の「中央公論」に掲載された。斎藤茂吉の解説によると、森鴎外はその日記に「大正元年9月13日、轜車に扈随して宮城より青山に至る。午後8時宮城を発し、11時青山に至る。翌日午前2時青山を出でて帰る。途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。予半信半疑す」
 「9月15日。雨。午後乃木の納棺式に臨む」
 「9月18日。前略午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す」とある。
 とれば乃木大将の死を確かめて14日から3日間ぐらいにしてこの小説を書いている。いかに急いでこの小説を書かれたかと云うことは、作者の制作衝動のいかに強かったかを証明することになろうと説明している。
 古川馨はその著「斜陽に立つ」(毎日新聞刊)に乃木と興津の遺書の書き出しが似ているとして森鴎外に与えた、その衝撃を記す。この小説は長崎に南蛮渡来の伽羅の香木を求めにいった弥五右衛門が相役を切り果たしてまで愚直に主君の命を守り伽羅の香木を購入して戻ったが、とがめを被らず逆に賞美された。その主君の13回忌に殉死すると言う筋である。しかも稀代の香木は「聞くたびに珍しければ郭公いつも初音の心地こそすれ」の古歌にちなんで「初音」と名付けられる。さらには「たぐひありと誰かはいはむ末匂ふ秋より後の菊の花」の古歌により「白菊」となる。弥五右衛門の愚直が生きながらえるのである。
 森鴎外はドイツ留学中乃木大将(ドイツ留学・明治19年11月30日から明治21年6月21日帰国)と知り合い、日露戦争でも乃木は第3軍の軍司令官、森鴎外は第2軍の軍医部長としてそれぞれ出征する。森鴎外はここで思わぬ役割を果たす。第2軍の管理部長石光真清に頼まれて遼陽会戦で戦死した歩兵34連隊大隊長橘周太大佐の祭文を書く破目になった。橘大佐は大正天皇が皇太子時代の明治24年1月から明治28年11月まで東宮武官として大正天皇にお仕えした人であった。真清は橘大佐の後任の管理部長であり名古屋幼年学校の先輩でもあり兄とも慕っていた橘大佐の祭文がどうしても書けない。翌日が慰霊祭という日になっても出来なかった。そこで思いあぐねて森軍医部長に懇願した。
 明治38年4月10日奉天城内の黄寺で英霊の法要が行われた。ここで真清管理部長が読み上げた森鴎外の手になる祭文は名調子であった。とりわけ歩兵34連隊の120名の生き残りの兵隊たちは泣いて感謝した。
 大正天皇は軍楽隊が御前で演奏するたびに軍歌「橘中佐」(作・鍵谷徳三郎、曲・安田俊高)を所望されたという。「橘中佐」(上)は19番まで「橘中佐」(下)は13番まである。名古屋幼年学校校長であった橘中佐(当時少佐)に心底から傾倒した同校文官教官、鍵谷徳三郎の気持ちが見事に表現された傑作である。その4番の詞はつづる。

  周太がかって奉仕せし
  儲けの君に畏くも
  生まれ給いし佳きこの日
  逆襲受けて遺憾にも
  将卒、数多失いし
  罪は、いかでのがるべき

 橘大隊長が戦死したのは明治37年8月31日であった。この日は大正天皇(当時皇太子)が誕生された日であった(明治12年ご誕生)。東宮武官橘周太は皇太子に手心を加えなかった。丈夫にお育てしようと荒療治をする。船を沖に出して皇太子を海へ放り投げたうえ学友たちに潜らして皇太子の足を引っ張れとまで指示したというエピソードまである。
 大正天皇が軍歌「橘中佐」をお聞きになられる気持ちがわかるような気がする。
 13番の歌詞はいう。

  国史伝うる幾千年
  ここに征露の師を起こす
  史ひもときて見るごとに
  わが日の本の国民よ
  花、橘の薫りにも
  偲べ、軍神中佐をば

 同期生大会を開いた東校庭で良く軍歌演習を行った。名古屋幼年学校出身の同期生が取締役生徒になると「軍歌“橘中佐”。軍歌始め…」と歌わしたものであった。