2009年(平成21年)2月1日号

No.421

銀座一丁目新聞

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〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第二章 (つづき) 

冬彦その2

 

十年一昔というが冬彦にとっては正に七十年一昔なのだ。60才で退官してからの十年、すっかり厳しい労働の義務からは解放されたのにかかわらず、何とはなしに過ぎてしまった自分に気づく。週に一回通う大手企業の顧問業が年金以外の収入として生活全般をうるおしてくれている。しかしこれもあと一年の命だ。また毎週一回、雨が降ろうが雪が降ろうが通っている区民水泳教室、土、日を除き原則として毎日通う区立図書館、逆に土、日に顔を出す碁会所や将棋クラブ、それ以外に何があったろうか。娘二人も嫁ぎ、孫もそれぞれ二人ずつ出来た。夫婦二人、特にトラブルもなく暮らしているが、このまま老いさらばえていく気は毛頭ない。しかしそのために一体何をしようとし何をしてきたのか、ごくたまではあるが暗澹たる思いに落ち込むこともあった。とはいえ一方、人生に於いて最も幸せな時に70才なのではないだろうかとも思う。親離れもし子離れもし一緒に暮らすのは妻だけ。出世欲もそのためへの苦渋もない。幻想も抱かなくて良い。酒も馬鹿飲みをしたあとの宿酔の苦しさもない。見栄や外聞にわずらわされることもない。体力の向上を願う無理な運動も無用ならば他からの評価も厳しくない。人生の中で様ざまな形で要求されたり自らが気負ったりして肩に力を入れることもない。親も見取った。子供たちもどうやら一人立ちした。70才万歳!だ。
現役をしりぞくということは、単に時間の観念に相違が生じるだけでなく、価値観そのものにも大いなる変化が生じる。例えば、現役の頃にはA地点からB地点に移動する時、必ず最短距離を求めた。これは単に次のアポイントメントに遅れまいとする配慮だけでなく、いわば本能のように当然のことであった。道草という表現は子供の時以来すっかり脳中から消え去っていた。いわゆる観光旅行の時でさえ、無意識のうちに最短距離の移動を目指していた。しかし引退した後は、医者などに歩け歩けとプッシュされるからか、A地点からB地点に移動する時、逆に少しでも遠回りしようと考える。自宅から最寄の駅に行くのさえ大まわりを心がける。これは価値観の大転換である。時には年齢を忘れ、往時の本能のまま一生懸命 近道を求めている自分を発見し、苦笑することがある。この価値観の変化は移動に際してだけでなく、時間にも食事にも、趣味でさえ大きく影響をうけている。
60才をすぎてから時間も出来たので、随分本も読んだ。区民図書館がまるで自分の書斎のようであった。現役中のように仕事のための専門書を読むのではなく心して小説を読むようにした。老人が書いたり老人のことを書いてあるものにまず目がむく。懐かしい作者たちにも出会った。その一人は川崎長太郎である。小田原の扶香町のもので、若い頃、オール読み物とか小説新潮などで何度か読んだ記憶がある。老人私小説とでもいうべきものだろうか、トタンぶきの物置小屋に独り暮らす、いってみれば哀れなじいさんの私生活であり、チビた下駄ばきで花街をそぞろ歩き、大衆食堂でチラシのどんぶりを食うという何ともやりきれないテーマなのだが独特の情緒があるのか結構ファンも多い作家だったように思う。私生活では80才半ばまで生きておられたようだし、晩年30才も年下の女性と再婚されたようだが、少なくとも作品の中では絵に描いたような淋しい哀れな老人の独り暮らしである。今となっては現実の社会の中には少ない情景なのだろうが如何にも実感がある。彼には「70才」というタイトルの作品すらある。俺もこんな老後を迎えるのではないかとしみじみ感じさせるものがどこかあるのだ。少なくとも物置小屋ではない家に住め、薄汚い大衆食堂ではないところで飯が食える、それだけでも幸せなことだと自分を納得することとなる。自分とは関係のない老後であるのだが、どこかに常に境遇こそ違え老人というもののはかなさ哀れさが我が身におきかえられるところがあり、あらためて読んだことに悔いはなかった。いろいろと本を読みすすむうちに少しずつではあるが確実に感じるのは自分たち世代は教養がないということだ。冬彦の一世代まえの大学生達は少なくとも哲学書を手にしていた。勿論どこまで理解していたのか実は表層的なものであったのかもしれない。それにしても人間いかに生くべきかという命題が彼らの人生のひとつの重要テーマであったことは疑いもない。少なくともカントやヘーゲルが何者であるかぐらいの知識はあったが。 冬彦の世代で哲学書を手にすることはむしろ嘲笑の対象でさえあった。大学のカリキュラムでやむを得ず読まねばならぬもの以外、自分らの世代は哲学書とは無縁であったことをあらためて思う。残念ながら教養がなくなった世代のはしりではないのかと思う。漢籍の知識がない。クラシック音楽や泰西名画をじっくり鑑賞する習慣もない。いってみれば受験勉強とテレビと週刊誌とスポーツ新聞に仕事に関する実用書、そんなものに囲まれた人生である。次のマンガ世代にはついて行けぬが、さりとてそれを軽蔑できるほどの教養があるとはいえない。
それはさておき、その気になって探してみると老人をテーマにした文学は決して少なくない。「老いらくの恋」という表現の元祖である吉井勇の作品などは序の口のようなもので平均寿命の延びもあってか最近は「老人文学」と言っても差し支えないほどの作品群がある。勿論、老いを目のかたきにし、しかも老いる前に自決してしまった三島由紀夫のような老人否定の作家も一方においては存在している。谷崎潤一郎の「フウテン老人日記」はカナで“フウテン老人”という表現や“フウテンの寅さん”にまで使われて有名作だし、室生犀星の「蜜のあはれ」や川端康成の「眠れる美女」なども老人が老人を描いた作品であろう。伊藤整の「変容」では「実に長い間、私の人生の大部分を、私は世の約束ごとを怖れ、それに服従して、自分を殺して生きてきた。もう沢山だ。私にこのあとしばらくは、思うとおりにさせてほしいものだ。」といわば老人自由宣言をしている。
作家自身が真の老人ともいえる年齢まで生き、そして尚、書き続けていた現役老人作家といえば宇野千代と野上弥生子が双璧であろう。宇野の場合、作品と実生活が重ねあわされている部分も多く、幸福の「花咲か婆さん」を自称するように彼女の作品には老いに対する哀れさは微塵もない。東郷青児との初対面のその夜、彼の家について行きそのまま同棲生活に入ってしまうという奔放さが老いてもなお、さかんである。最後の夫ともなる北原武夫と恋する頃、二人で映画館に行き彼女は映画を観ずにずっと北原の顔を見ていたという告白もあっけらかんとしている。日本人、特に日本女性としては例外的ともいえる明るさである。89才で書いた「一ぺんに春風が吹いて来た」なども老人万歳の作品である。ただ90才を過ぎても中年過ぎから続けてきた万歩計なしに、数えながら一日一万歩以上を歩くという肉体的な努力は誰しもが簡単に真似できることではなく、さすがだと思わざるを得ない。
一方、野上弥生子の恋については驚かされた。聖女とまではゆかずとも、少なくとも冬彦の知る限りにおいては巷の下らぬ色恋とは無関係の知的な女性像のいわばシンボルであった。100才を越える年まで作家として現役だったとも聞いている。その彼女の膨大な日記が公表されたのだが85才の折に自らの恋に触れている。「銀の匙」で有名な中勘助がその恋人で豊一郎との結婚後も夫の嫉妬による夫婦間のいさかいがしばしばあったという。65才の時、夫が亡くなり、その葬儀に勘助が現れ40年ぶりに再会する。弥生子は日記に記している。
「しかもなお彼を考える時、私はつねに22,3の若い私になる」と。しかしこれは弥生子の若き時の恋である。冬彦がより驚くのは彼女の晩年の恋である。
68才の日記に記す。
「異性に対する牽引力がいくつになっても、生理的な激情にまで及び得ることを知ったのはめずらしい経験である。これは私がまだ十分女性であるしるしでもある。」お相手は有名な哲学者の田辺元である。同じ北軽井沢の山荘仲間であったが互いの伴侶を亡くしてから急激に二人の仲は接近する。
「こういう日が人生の終りに近くなって訪れると夢にも考へたらうか。ひとの一生の不思議さよ」
こう日記に記された二人の恋は77才で田辺が亡くなる日まで続いた。二人は同年であったから正に70代の恋なのである。二人の間の熱烈なラブレターは今も多く見つかっている。
80才を越えてなお、現役の作家の中に、瀬戸内寂聴がいる。瀬戸内晴美の筆名で流行作家だった時代、冬彦も何冊か彼女の作品を読んだ記憶がある。“子宮”作家などとエロ小説家扱いされていたこともあった。彼女の「渇愛」という表現が印象的だった。愛されることを恋願いながらも、愛している自分自身を愛する人よりもより愛しているかのような情念が彼女の愛の表現には色濃くある。50才になるやいなや出家をしてしまったと聞き、一体この人は渇愛と信仰をどのようにおりあっていかせるのかと他人ごととはいえ大いに気になったものだ。どろどろとした情念と信仰との間には時として一層生きていく悩みを深く、複雑なものにするのではなかろうか。出家という解脱の行為はむしろこの人にとっては不向きな選択だったのではないのかとも思った。死ぬまで自分自身に見切りをつけず、人間は本来孤独なものだと自覚し他人を愛していくのが、老いることの中で唯一大切なことだと説くこの人の人生哲学と出家という行為を結びつけるのが難しかった。川崎長太郎のように老いさらばえてもうらぶれた遊郭をほっつき歩く姿の方が分かりやすいようにも思えた。やはりエロスをテーマに書き続けた作家の今東光もすでに僧職にあり、彼女の先達であったこともふくめ、日本人と信仰のありかたに、またまた、難問を投げかけられた思いをするのだった。
しかし「老人文学」は現代の作品に限られているわけではない。何といっても圧巻なのは源氏物語である。源典侍(げんのないしのすけ)こそ老婆の恋の最たるものであろう。源氏19才の時のお相手である彼女は57,8才である。何といっても平安時代である。平均寿命からいっても完全に老婆であったろうに二人はかなり激しい恋におちる。いわば孫と祖母の恋だ。源氏は彼女との情事に大いに未練があるが、世間の目を恐れて遠ざかるが彼女の方は源氏に執着しつづける。10年後に尼になっている70才近い彼女に再会するが十分色香をはなって源氏の気をひこうとする。30才にならぬ男と70才の老婆との情念がこの日本を代表する古典文学に、ちゃんと書かれていることにあらためて驚きもし考えることになる。70才を過ぎた男の好色ぶりではなく、老女の未練がましい恋情をこの時代に書き残していることは、人間の宿命なのかとさえ感じる。
冬彦は区立図書館でなおも「老人文学」を探し続ける。耕治人の「天井から降る哀しい音」などの三部作はいささか重く悲しい老人夫婦の物語で再読する気にはとてもなれなかったが老人の性を強調することが多い他の作家たちに比べあるいは現実の老人の姿の実相に近いものかもしれない。今、社会問題化している老人介護の深刻さにもちゃんと触れている。
「老人の性」についての大作は中村真一郎の「仮面と欲望」にはじまる四部作であろう。70才の男と60才の女の恋愛を肉欲を主題として、これでもか、これでもかというように迫る。心の愛を否定し、肉の愛を前面に押し出す特異な「老人文学」といえる。
老人の肉欲といえば秋山ちえ子という人の存在も忘れがたい。85才までTBSラジオの「秋山ちえ子の談話室」という番組が代表的なもので、1957年に始まってから45年間、12,000回余りしゃべり続けたのだから驚嘆に値する。この時代を超えて良識の化身のようだった女性が初老ともいえる時に恋をした。そのお相手の作家が実録風の作品を著したのだからご本人はさぞかしショックであったろう。老いつつある彼女が普通の女性と少しも変わらぬ肉欲のとりこになって恋人にしなだれかかっていくところがいかにもいじらしく可愛らしい。
そういえば藤原あきという女性もいた。我らがテナーの藤原義江と恋に落ち、夫や子供を捨てた。当時としては勇気ある恋する女のシンボルであったという。冬彦の世代は、もうその種の修羅から脱しており、テレビタレントから政治家に転出していた彼女のことしか知らない。ただ不倫とか肉欲とかについてはそれを口にすることさえ嫌っていた母親がひどく彼女のことを敵視していたのを覚えている。あきとの結婚後も、砂原と恋人をつくる義江に、あきは悩まされ続けるのだが、母がああいうふしだらな女には当然の報いよと吐いて捨てるように言っていたことを思い出す。
明治、大正に育ってきた日本女性の中には貞節こそ女性の最大の美徳だと信じきっている母親のような主婦が何と多かったことか。高校生時代、春介や夏男と、どうしても信じられないし想像もできないのは、我々の両親がセックスをしている姿だなあと話し合っていたことに通じる。セックスについて多感になっている年頃の冬彦たちが、あたかも全神経を集中するかのように両親の言動を観察しているにもかかわらず、彼らからは性的な香りが一切しなかった。キスはおろか手を握り合っている姿さえ見たことがない。両親の互いの眼差しの中にさえ性的なものが一切ない。あの時代、中年以上の日本の夫婦たちはどのようにして自分達の欲望を処理していたのだろうか。70才になっている自分自身の欲望を省みる時、不思議でならない。外の世界を体験できる父親たちはさておき、特に母親を含めたあの頃の女性については理解が及ばない。春介はきっと俺たちはコウノトリが運んできたんだろうよ、というし、夏男は大天使が受胎告知したんじゃないかなどという。
自分たちを生んでくれたことは間違いないのだから、彼らの間に決して少なくはないセックスが交わされたことは確かなはずで、よくは分からぬし、むしろ余計なお世話だとも思うが、どうしても彼らの性生活がイメージし得ないのだった。
春介がある日、かなり真剣な表情で冬彦に言う。女性というものを数多く知ることが、そのまま女性の本質を深く知ることとはならない。そうして紹介を受けたのが芥川賞作家の外村繁であった。この外村繁という人は亡くなった夫人と再婚した妻の二人しか女性を知らないのだという。とは言え彼の作品は実に妖しい官能の香りに満ちあふれている。たった二人だけの女性体験から女の本質に近いものを感得しているのだ。そういわれて読むことを薦められたのだった。冬彦は今でもその夜のことを鮮明に記憶し恐怖の体験をすることになる。その夜とは春介に薦められ外村の作品を読み始めた頃のことである。同氏の晩年の短編であったが、再婚した夫人との実録的体験記だった。中年まで男を知らなかった夫人は性についても未熟で消極的であった。長く役所で厚生分野の仕事を務めていて、ある日、娼婦たちの性病に関する映像を見ることになる。かなり刺激を受けて帰宅し、その夜、それを語りながらの作者との性交で初めて性の歓喜に浸る。春介のいうとおり冬彦にとっても実に官能的なものであった。冬彦もその夜久しぶりに妻の笹子を抱く。行為の最中この短編を想い自分でも驚くほど興奮し、常になく妻を荒々しく攻める。が、ふと気づくと彼の体の下の妻が彼の行為を心から嫌悪するような鋭い視線で見つめていたのだ。その何もかも見抜いているような妻の視線を冬彦は今後も忘れることはできないであろう。
自分がまことに下品で好色な獣のような男だと思われているに違いない。そう確信させられる一瞬だった。一度として妻を裏切ったことがないという事実はこの一事で雲散霧消してしまったに違いない。以後、冬彦は妻を抱くことができず妻もまた、抱かれようとはしない。長く添い遂げてきたたった一人の女であっても男女の仲とはまことに複雑なものだと痛い体験の中でしみじみと思うのだった。             

(つづく)