1998年(平成10年)8月20日(旬刊)

No.49

銀座一丁目新聞

 

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映画紹介

「ダロウェイ夫人」

大竹 洋子

監 督 マルレーン・ゴリス
原 作 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』
脚 本 アイリーン・アトキンス
撮影監督 スー・ギブソン
衣 装 ジュディ・ペッパーダイン
音 楽 イロナ・セカス
配 給 日本ヘラルド映画
出 演 バネッサ・レッドグレイヴ、ナターシャ・マッケルホーン、
ルパート・グレイヴス、マイケル・キッチン、サラ・バデルほか

1997年/イギリス、オランダ合作/英語版/カラー/ヴィスタサイズ/97分

 20世紀のイギリス文学を代表する女性作家ヴァージニア・ウルフが、41歳の1925年に発表した小説『ダロウェイ夫人』の映像化である。監督はオランダの女性監督マルレーン・ゴリス。「アントニア」(95)でのびやかな田園風景と、農場に生きる人々の自由闊達な生と性を謳歌したゴリス監督が、一転してロンドンの上流社会に暮らす人々の心情をあざやかに描き出す。

 時は1923年6月半ばのある晴れた水曜日、第一次世界大戦が終了した5年後のことである。塵まみれなる街路樹に哀れなる五月来にけり 石畳都大路を歩みつつ恋しきはなぞ我が故郷 と佐藤春夫が歌ったように、ダロウェイ夫人もロンドンの街を歩きながら、憑かれたように30年前の青春の日々に思いをめぐらせる。初夏の梢の緑には、そのような力があるらしい。

 下院議員夫人クラリッサ・ダロウェイの一日を映画は追ってゆく。風邪をこじらせて暫く入院していたダロウェイ夫人は、その日の夜に自宅で大きなパーティーを開くことにしていた。花を買いに出かけていった途中の公園で、幼馴染のヒューに出会ったことから、夫人はゆくりなくもかつて自分に恋していたピーターを思い出す。彼らはブアトンにあるクラリッサの父の屋敷で、夏を共に過ごした。そしてその年、クラリッサはロマンチストで無想家のピーターではなく、政治家を志す凡庸な青年リチャード・ダロウェイを選んだ。だが、これが正しい選択だったかどうか。夫人の自問と懐旧の念は、帰宅してからもパーティーの間もずっとつづく。

 一方、セプティマスという青年が登場する。第一次大戦中の戦場で親友を見殺しにしたセプティマスは、以来神経症に苦しんでいる。セプティマスには、彼を励まし支えるやさしい妻がいる。ダロウェイ夫人とセプティマスには接点が何もない。だが原作者ウルフは、ダロウェイ夫人の分身としてセプティマスを配した。夫人の不安や苛立ちは、セプティマスによって具現化される。

 夫人は通りに面した花屋で花を選んでいる。ミセス・ダロウェイ、と呼びかける花屋の女主人に、自分はクラリッサではなくダロウェイ夫人にすぎないのだと、彼女の心は重くなる。店の外には戦争の幻影におびえるセプティマスがいる。二人はガラス窓ごしに顔を合わせるが、互いを認識したわけではない。もう一つ、私はこのシーンが一番好きなのだが、ダロウェイ家の一人娘エリザベスを乗せた2階バスが、セプティマスと妻が住む小さな下宿部屋の窓の下を通りすぎてゆく。エリザベスはパーティー好きの母に批判的で、オールドミスの家庭教師により親しみを感じている。この日も家庭教師と街に出て、パーティーはパスするつもりだった。しかしオールドミスの愚痴をきいているうちに嫌気がさし、急に家に帰る気になった。そのエリザベスの乗った赤いバスが、セプティマスの部屋をかすめて去ってゆく。バスの中で、エリザベスと人の世の無常が隣り合わせに座っている。それからすぐに、セプティマスは窓から身を投げ、鉄柵につきささって死んでしまう。

 パーティーには首相もきた。たまたまインドから戻ってきていたピーターも、ブアトンで少女時代を共に過ごした親友のサリーもやってくる。いつか二人で世界を変えようと誓いあったサリーは、新興の貴族夫人になっている。昼間の憂鬱からようやく解放されたダロウェイ夫人の耳に、セプティマスの最期を見とどけた医師の話し声がきこえる。夫人は見知らぬ青年の死に深い衝撃をうけ、逃げるように自室に閉じこもる。なぜ命を投げ捨てることができるのかと夫人は考え、それが妥協を許さない青年の純粋さからきたことに心うたれる。

 丁度そのとき、向かいの家の老婦人がベッドにつこうとしていた。その穏やかな様子に、ダロウェイ夫人の気持ちは安らぐ。人生の苦しみも悲しみもやがて淘汰されるであろう。気を取り直してパーティーの輪にもどったダロウェイ夫人に、あの若き日の、輝くばかりに美しいクラリッサが重なる。

 あまりに高名なイギリスの女優バネッサ・レッドグレイヴが、あまりに見事にダロウェイ夫人を演じたので、おまけにヴァージニア・ウルフもそこに加わって、私はときどき映画の行方を見失った。マルレーン・ゴリス監督の意図も見えなくなってくる。しかし、これは文学作品の映画化なのである。そして100年も前の、今でもその形をとどめる保守的なイギリスで、自分に正直に生きようとした女性の物語を、現代に生きる女性たち、マルレーン・ゴリスと脚本のアイリーン・アトキンス、バネッサ・レッドグレイヴの名だたるフェミニストたちが力をあわせ、共感をこめて甦らせたことに感動するのである。

 ダロウェイ夫人は、向かいの家の老女の立居振舞に、死へと傾いてゆく自分を回復させた。だが、その後も平常心を保ちつづけることができたのだろうか。迷ってはもどり、悩んでは自身を取り戻す繰り返しではなかっただろうか。現にヴァージニア・ウルフは、それから16年後にウーズ川に入水自殺してしまったではないか。そして私は、セプティマスがダロウェイ夫人の分身ではなく、ウルフの分身だったことにようやく気づく。

 私が好きなロンドンのそのかしこの光と影、一日中そのベンチに座っていたいセント・ジェームス公園、ひんやりした花屋のたたずまい、絵にかいたようなクイーンズ・イングリッシュ、それだけでも映画「ダロウェイ夫人」は充分なくらいで岩波ホールは連日の超満員ときく。

 この文章を書いた8月15日、53回目の夏がめぐりきた敗戦の日、渋谷の駅前では左翼と右翼の車が小ぜりあいを展開していた。いつも女性が願いつづけてきた“戦争のない世界”は、20世紀にはついに果たせないまま、私たちは無数の女性たちの祈りをいだきつつ、やがて21世紀へと移りゆく。

11月中旬まで岩波ホール(03‐3262‐5252)で上映

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