2008年(平成20年)11月1日号

No.412

銀座一丁目新聞

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追悼録(328)

軍神橘周太中佐を思う

 大原康男著「帝国陸海軍の光と影」(展転社・平成17年8月15日第一刷発行)を読んでいてこんな記述にぶつかった。―旧軍歌の傑作の一つである「橘中佐」(インドネシアのスハルト大統領の愛唱歌でもあるといわれる)は、橘中佐に心底から傾倒した名古屋幼年学校の文官教官であった鍵谷徳三郎作詞、安田俊高の作曲によるものだが、軍楽隊が大正天皇の御前で演奏することがあるたびに天皇はきまってこの歌を所望されたと伝えられている―士官生徒9期生の橘周太は明治35年少佐に進級とともに名古屋幼年学校校長となった。その前は明治24年1月から同28年11月まで東宮武官となり皇太子殿下(のちの大正天皇)に仕えている。戦争中よくこの歌を歌った。「橘中佐」(上)は19番まで、(下)は13番まである。実によく徳谷徳三郎さんの気持ちが表れて、ほとばしるような詩である。その4番の詞は「周太がかって奉仕せし/儲けの君の畏くも/生まれ給いし佳きこの日/逆襲受けて遺憾にも/将卒、数多失いし/罪は、いかでか逃がるべき」である。橘中佐が戦死したのは明治37年8月31日であった。この日は大正天皇がお生まれになった日である(明治12年ご誕生)。甘露寺受長さんの話によれば橘武官は皇太子を丈夫にお育てしようと、船を沖に出して東宮を海へ放り投げたうえ学友たちに潜って東宮の足を引っ張れとまで指示、手荒い鍛錬をされたという。大正天皇もその人柄を好まれたのに違いない。
 橘周太は日露戦争には第2軍の管理部長として出征する。軍司令官は奥保鞏大将で橘周太が東宮武官の時の部官長であった。橘周太は士官学校卒業以来、軍教育家として多くの業績を残してきた。強く第一線部隊長転出を希望していた、その彼の願いを聞き入れられて明治37年8月10日、歩兵34連隊大隊長になる。後任の管理部長になった石光真清大尉(士官生徒11期)に、馬丁に事づけた名刺の表裏一杯に几帳面に書いた便りには「目下の雨には部下の困難見るに忍びず、患者の増発には予防に心を苦しめ夜も雨音を耳にすれば平気に夢を結ぶあたわざる始末なり」と書かれていた。
 歩兵34連隊が参加した遼陽会戦は旅順と並んで激戦であった。この遼陽戦に参加した日本軍約13万、露軍約22万、死傷者日本軍2万3千、露軍1万6千であった。橘大隊長は露軍にとって遼陽防衛の要である首山堡(海抜148mの高地)攻略を命ぜられた。この戦いで第1塁、第2塁を陥れるが敵の反撃も猛烈を極め、生存者はわずか数10人となる。部下を叱咤し、負傷をしたのにかかわらず退かず、歌の文句通り絶命する。時に40歳であった。後で検視したところ橘大隊長の負傷は全身7ヶ所(下腹部1、胸部2、大腿2、腕1、臀部1)にも及んだ。「壮絶、としか言いようのない最後であった」(前掲大原康男著より)。
 戦い終わって明治38年4月10日奉天城内の黄寺で戦没者の法要が行われた。祭文を読むのは石光管理部長である。石光は2期後輩ながら幼年学校以来、橘周太を兄のように慕ってきた。祭文がどうしても書けない。ふと思いついて第2軍軍医部長・森林太郎博士(鴎外)に苦衷を訴えた。森軍医部長は快く引き受けてくれた。慰霊祭で読み上げられた祭文は格調の高い名文であった。解散後、慰霊祭に参加した34連隊橘大隊の生き残り120名は石光管理部長の前で泣いて感謝した。会場からの帰り奥大将が独り言のように言った。「石光君が名文家とは知らなんだ。ようできおった。なあ税所君」税所少将(名は篤文・のち中将)も「簡にして要を得ている」と褒めたという(石光真清著「望郷の歌」中公文庫)。
 われが歌うは「橘中佐の歌」。
 嗚呼々々悲惨、惨の極
 父子相抱く如くにて
 共に倒れし将と兵が
 山川震う勝鬨に
 息吹き返して見かえれば
 山上、すでに敵の有

 

(柳 路夫)