2008年(平成20年)11月1日号

No.412

銀座一丁目新聞

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安全地帯(230)

信濃 太郎

ドキュメンタリー映画「嗚呼 満蒙開拓団」

 第21回東京国際女性映画祭のオープニング映画は羽田澄子監督のドキュメンタリー「嗚呼 満蒙開拓団」であった(10月19日・東京ウイメンズプラザ)。今どきの若者は「嗚呼」の漢字も書けないであろうし「満蒙開拓団」もさっぱりわからないであろう。この日観客席は満員で立ってみる人も少なくなかった。年配者が目立つのも仕方あるまい。
 映画ははじめに中国残留婦人たちが国を相手に起こした訴訟で東京地裁が「賠償を認めず」という判決(2006年2月15日)を下したシーンから始まる。中国残留婦人たちは一様に「不当判決」と叫ぶ。戦後60余年たつというのに戦争の犠牲者である中国残留婦人の問題が未解決というのも考えさせられる。彼女たちが犠牲者となったのは国の政策による。農業移民、「満蒙開拓団」として満州の東北地区に送られる。満州国維持の軍事目的と国内農村窮乏の緩和のためで、その数は30万人以上に達する。ソ連参戦により多大の犠牲者が出て、中国残留孤児も生まれた。
 昭和20年8月9日、ソ連軍が参戦、満州の国境を突破、なだれ込んできた。国境付近に散在した開拓団はハルピン、チチハルなど都市を目指して避難を始めた。逃避行の最中ソ連軍の戦車などに蹂躙されたり難民キャンプにたどり着くまでに体力を消耗し、食料も十分でなかったため衰弱死したりした。倉庫などに収容されても零下30度以下の寒さの中、暖房、寝具、医薬品がなく、そのうえ食料も不足、病魔で死者が続出した。たとえば、ハルピンから東へ160キロの方正県では数千人の人々が亡くなった。方正県の人民政府が4500体の 遺体を掘り出して火葬している。また生き残った開拓民は村の人々が引き取って扶養した。この村には残留孤児や残留婦人が多い。その数は4200名にも及ぶ。
ここには「方正地区日本人公墓」が1963年(昭和38年)に建てられた。日本人妻松田ちえさんが方正県の山に散乱する日本人の遺骨を見るに見かねて埋葬することを人民政府に願い出たからである。周恩来首相が「悪いのは日本の軍国主義であって日本国民も犠牲者である」と許可した。松田さんは現在、息子や孫達と日本に住んでいる。日本語のできる孫の話によれば、松田さんは文化革命の時、4年間投獄され死刑の判決を受けた。ところが公墓建立の話を覚えていた周恩来首相の指示で釈放されたという。
 この「日本人公墓」には毎年のように元開拓民の人達などが訪れる。その人達と羽田澄子さんとのインタービューは悲惨きわまりない。足手まといになるからと幼い我が子を絞め殺したり飢えで、あるいは発疹チブスで死んだりした。また中国人に我が子を預けたり、子供たちを育てるため中国人の妻になったりもした。避難列車は関東軍の家族、満鉄の職員の家族が最優先され、避難民は後回しにされた話などまさに“地獄絵図”である。元大八浪泰阜村開拓団の人はここの小学校を訪れ文房具などを寄付、流暢な中国語で子供達に語りかけていた。この開拓地から方正まで自動車では日帰りできるのに当時は1ヶ月もかけて方正へたどり着く。苦しかった逃避行であった。「お国のため」と送り込まれた満州移民は敗戦で廃棄されたも同然となった。そのほんの一部の歴史的事実が大連生まれ、旅順育ちの羽田澄子さんの手でドキュメンタリー映画となった。10代をハルピン、大連で過ごした私には人ごと思えず、敗残の悲惨さが強く胸に突き刺さった。