2008年(平成20年)4月10日号

No.392

銀座一丁目新聞

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追悼録(308)

後藤四郎さんを偲ぶ会開かれる

  恒例の「みはた会」(47回)が開かれた(4月3日・靖国神社・九段会館)。終戦時の昭和20年7月、編成された歩兵321連隊の連隊長、後藤四郎さん(陸士41期・陸軍中佐)は3年前の平成17年1月97歳で亡くなられたが、その遺徳をしのんで当時の部下たちと戦後、後藤さんと知己を得た人々30人が集まった。
 正午に九段の靖国会館前に集合し、日本陸軍の中で「奉焼」せずただ一つ残った歩兵321連隊旗(遊就館に奉納される)を当時見習士官であった百留次雄さん(札幌在住)が奉じて靖国神社拝殿まで行進、参拝する。終わって軍旗を中心に記念撮影をする。撮影者は伊室一義さん(陸士61期・「写真でつづる後籐四郎さんの軌跡」の著者)。午後1時から九段会館で会食に移る。こもごも後藤さんの思い出話をする。広島市東方の原村演習場に駐屯した321連隊は原爆が広島に投下された翌日から1週間、遺体処理、焼け跡の整理にあたる。このため広島に出動した全員が原爆被爆手帳を持っている。学徒出陣の田中幸作さん(東京・世田谷区在住)は「遺体を数知れず焼きました。2500体を超えるでしょう。あの寺にはまだ骨が残っているでしょう」という。そういえば後藤さんから「連隊長として現場で指揮した私が証人になったおかげで、なかなか下りなかった原爆手帳が原爆被害の女性にすぐ交付された」という話を聞いた。
 後藤さんを囲むゴルフ会の幹事を務めた梶川和男さん(陸士59期)は「後藤さんは満80歳の時(昭和62年)171回ゴルフをしております」とその一覧表を披露した。ほとんど90台のスコアには感心する。後藤さんの熊本幼年学校の後輩、小松峯生さん(熊幼48期)が面白い話をした。ある時後藤さんの話をすると、お母さんの喜久子さん(99歳で健在)が「あの“まな板の人”」といったという。小松さんの父親周策さん(故人)は陸士34期期生で小倉にあった野戦重砲6連隊にいた。後藤さんも小倉歩兵14連隊におり、将校官舎が近くであった。当時後藤少尉の家の表札はまな板に「後藤四郎」と大きく書かれ評判となっていたというのだ。
 私は後藤さんが出した「へんこつ隊長物語」(毎日新聞刊)を読み返してみた。関東軍一の不良中隊を「これなら教育」で精鋭中隊に生まれ変わらせる話に今更のように感心した。一日些細なことでもよいから善行を施すという話だ。手元にある「これなら」を見ると「路端に遊んでいる子供の頭をなで通った」「道で葬式に出会った、丁寧に帽子を取り心から弔った」まことに「これなら」簡単だ。「一日一善」は心を安らかにさせるから案外長生きの秘訣かもしれない。人生の師後藤四郎さんに感謝しつつ梶川さんと帰途に就いた。

(柳 路夫)

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