2008年(平成20年)3月20日号

No.390

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追悼録(306)

母親の愛は歌で始まった

  なくなった松永伍一さんは、得難い子守歌の研究家であった(3月3日死去・享年77歳)。日本アイスランド協会の総会(3月9日)に顔を見せた日本子守歌協会の西館好子さんに「子守歌を大事にされた松永さんがなくなられてショックでしょう」と慰めると「これから大変よ。だが、やるしかないわよ・・・」と悲愴な顔をしていた。私は日本子守歌協会主催のコンサートのイベントで松永さんの元気な姿を舞台上で二度ほど拝見しただけであるが、その言葉は忘れがたい。
 ここに松永語録を綴る。西館さんが子守歌協会を始めるときに与えた言葉は「子守歌は大いなる『いのち賛歌』でなければならない」であった。さらに松永さんは言う。「いのち賛歌というのは相対的に根源的にいのちの賛歌であって、子守歌の枠がやぶれていく時期にきているのかもしれない」松永さんの頭の中には娘が看護する母親のための「母守歌」であっても良いし、おじいさんが孫のために歌う「孫守歌」であってもよいという考えがある。今の子供は情緒がきわめて不安定である。学校でショックな事件があるとすぐにカウンセラーを呼ぶ始末である。昔は母親から子守歌を聴かされて子供は育てられたから情緒が安定していた。多少の事件には動じなかった。今の子供はひ弱になったものである。
 松永さんは詩人である。「五木の子守歌」の中の一節「水はてんからもらい水」という発想は外国の子守歌の中には全くないという。この一節は文学的にもかなり程度の高いイメージ処理だと指摘する。
「五木の子守歌」は昭和5年、人吉市東間小学校の音楽教師田辺隆太郎さんがはじめて採譜(五木村・相良村)したもので、リズムは三拍子である。人吉、球磨地方には三拍子の子守歌が少なくない。
「母親の愛は歌で始まっていたんじゃないか。歌で表現するのがいちばん適切だったというので、母親がつぶやいていたんじゃないだろうか」という松永さんは「中国地方の子守歌」(岡山県民謡・山田耕筰編・作曲)の美しさを挙げる。「きょうは 二十五日さ/あすはこのこの/ねんころろ 宮参り」(2番)「宮へ参った時/なんと言うて拝むさ/一生この子の/ねんころろ まめなように」(3番)親の愛情の典型というか、情感のエキスが感じられると語る。松永さんが亡くなった夜、その枕元で西館さんはこの「中国地方の子守歌」を歌ったと聞いた。
松永さんは戸籍上八番目の子で母親が44歳の時の子供である。一番上の姉の話では母親は伍一さんを間引きしようとして水風呂に入ったり木槌でおなかを叩いたりしたという。その母親の辞世の歌は「暗きより暗きに移るこの身をばこのまま救う松かげの月」であった。松永さんが41歳の時であった。
子守歌の本(紀伊國屋書店)を書いてから、その悲しみにふれる結果になって、文学者になって良かった、詩人になって良かったという思いを持ったそうだ。母のお棺の中に入れた松永さんの母上様へ宛てた最後の手紙は「私を産んでくださってありがとうございました」の一行であった。
母親の死から36年、「日本農民詩史」全5巻(法政大学出版)「天正の虹」(講談社)などを出版され業績を上げられた。「かあさんと二人で織りあげる人生模様 それが子もりうた」と詩を綴った松永さんは今、天界で「子守唄よ、甦れ」とつぶやいていることであろう。

(柳 路夫)

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