2008年(平成20年)3月20日号

No.390

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花ある風景(305)

並木 徹

「花はどこへいった」

 坂田雅子監督のドキューメンタリー映画「花はどこへいった」を見る(3月13日・岩波シネサロン・6月14日から岩波ホールで特別上映)。2003年5月4日、肝臓癌で亡くなった夫・フォト・ジャーナリストのグレッグ・デビス(享年54歳)への鎮魂の作品である。亡き夫が写真を通じて強烈なメッセージを出したようにこの映画は「戦争の愚かさを伝えると同時にその愚かさの犠牲になった庶民が困窮と戦いながらも愛情と深い絆に結ばれて懸命に生きる今の姿」を見事に映し出す。
 夫妻は同じ年である。京都で出会い、22歳で結婚する。グレッグは19歳から3年間ベトナムに従軍、サイゴン、ダナン、ブレイク、ナチャンなど各地で転戦する。1964年8月始まったとされるベトナム戦争は、投入した米軍55万人、南ベトナム政府軍60万人を合わせれば115万人になる。結局1975年4月のサイゴン解放で北ベトナム側の勝利で終わる。死者は米国5万8000人、南ベトナム18万5000人、北ベトナム90万人といわれる。ベトナムで3年過ごしたグレッグは反戦活動家になり、アメリカに帰国するも落ち着かず、京都で写真家となる。戦争の後遺症とでもいうのであろうか。彼を知る写真家のフィリップ・ジョーンズは「グレッグは生まれながらの無政府主義者で自由主義者だった。厳しい道徳感の持主で不正をすぐ見抜いたし、またカメラを通して加害者を暴いた。非常に親切で優しい人でもあった」と評する。そうしてお互いに「この写真はどういう意味を持つのか」と問われると結論づけたという。
 グレッグの死から4年、坂田監督は米国のフイルム・ワーキングでドキュメンター映画製作の基礎を学び、ベトナムと米国で枯葉剤の被害者やその家族、ベトナム帰還兵、科学者などにインタービュー取材をする。グレッグの命を奪った枯葉剤によるベトナムの犠牲者がつぎつぎに登場する。30年前に生れていなかった子供たちにも被害が及ぶ。二つ頭の子の母親が普通の健康児と変わらないようにいつくしむ姿を見て思わず涙が出る。長女も次女もその子を可愛がる様子も胸を打つ。
 米軍によってまかれた枯葉剤は容器のドラム缶にオレンジ色の横縞が入っていたので「エージエント・オレンジ」と呼ばれた。ジャングルに潜む南ベトナム解放軍や北ベトナム軍を排除するために撒いたのだが、この枯葉剤に人体や環境に有害なダイオキシンが含まれていた。戦争のためといいながら愚かなことをした。戦争は人を狂気にする。「目的のために手段を選ばない」狂気をうむ。
 映画の題名「花はどこへいった」はベトナム戦争終結7年前の1968年3月ケサン海軍基地で兵士たちが歌った歌(作詞・作曲ビート・シーガー)である。いつの間にか反戦歌になった。サイゴンが解放されてから数日後、大統領官邸前にはホー・チー・ミン(北ベトナム初代大統領)の言葉を書いた横断幕が張り出される。「独立と自由ほど貴いものはない」
 30年戦争が終わったというのになぜか「平和」という文字がなかった。当時毎日新聞の特派員であった古森義久記者は言う。「植民地だって平和に違いない。奴隷の平和、というものもある。自立を勝ち取るためには戦争も辞さない。それが国際社会の現実なんだと。頭をガーンと殴られた気がした」(「20世紀事件史歴史の現場」毎日新聞社)現代もあまり変わっていない。人間はかくも度し難いものなのか・・・・

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