2008年(平成20年)3月1日号

No.388

銀座一丁目新聞

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追悼録(304)

濁流だ濁流だと叫びゆく末は・・・・

 恒例の柳会(2月25日・出席者24名、東京パレスサイド・アラスカ)で田中 長さんが歌人斎藤史さんの歌をいくつかを朗読した。
 「濁流だ濁流だと叫びゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」
 (2月26日、事あり。友人等、父、その事に関る)
 昭和11年2月26日2・26事件が起きた。史は首謀者の一人栗原安秀中尉(陸士41期)とは旭川の小学校は同じ学年であり、斎藤内大臣を襲った坂井直中尉(陸士44期)は二つ年下で幼馴染であった。斎藤瀏も栗原の父、勇も陸士12期の同期生、坂井の父兵吉(のち少将)は陸士9期で、いずれも旭川の7師団におり、春光町の官舎が同じであった。斎藤少将は第7師団参謀長のあと熊本の歩兵11旅団長として済南事変に出動、昭和5年予備役となる。栗原中尉をわが子のように可愛がっていた。事件の直前、栗原から1000円の軍資金を頼まれると知人の実業家石原広一郎に融通してもらっている(のち石原さんは罪に問われる)。首相官邸を襲撃した栗原中尉からの知らせで事件を知るや事件の収拾に活躍するが、反乱ほう助罪で禁固5年の刑を受ける。斎藤瀏の歌「丈夫のわが名あれどここにして四百五十号と呼びかへられつ」
 「暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた」
 (5月20日、章子生る。同29日父反乱ほう助の故をもって衛戍刑務所に拘置せらる)
 史さんは昭和6年親戚の医者と結婚された。事件が起きた時は27歳であった。
 栗原は「古より狡兎死而走狗烹吾人は即ち走狗か」の遺書を、坂井は「広大無辺の御仏のお慈悲に浸り、唯忠を念じて瞑目します」の遺書をそれぞれ残して他の同志とともに処刑された(第一次処刑15名、第二次処刑4名、自決者2名であった)。
 毎日新聞の先輩、狩野近雄さんは当時の様子を本に書いている(「記者とその世界」)。それによると、新宿で整理部記者とお酒を飲んでいるとき、事件を知った。急いで有楽町の会社に戻ると玄関に謄写版刷りの決起趣意書がばらまかれていた。朝日新聞は緒方竹虎が応対に出たが印刷局で活字をひっくり返され相当な被害を受けた。毎日は庶務部長小泉信策が応対に出た。小泉部長が「私が代表者です」というと若手将校は決起趣意書をまいて出て行ったという。狩野さんは愛宕山にあったNHKも押さえないクーデターは成功しないと思ったという。
 栗原の弟の重厚大尉(陸士49期・東京幼年学校34期)は田中長さんの東京幼年学校の生徒監であった。2・26事件の際、重厚大尉は陸士本科に在学中であった。それゆえに斎藤史の歌には思いれがあるという。
 「歴史とてわれらが読みしおほかたもつねに勝者の側の文字か」
 徳岡孝夫は近著「民主主義を疑え」新潮社2008年2月15日刊)で「歴史ほど歪められやすく、好みのままに利用されやすいものはない」として「歴史」を疑えと教えている。
 斎藤史は2002年4月26日93歳でこの世を去った。歌人としてその歌は後世に残る。
 「いのち断たるおのれは言はずことづては虹よりも彩にやさしかりき」

(柳 路夫)

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