2008年(平成20年)2月10日号

No.386

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追悼録(302)

板垣死すとも「名」を残す

  明治の政治家、板垣退助が自分の娘三人に「兵、軍、猿」と名付けたという(ドナルド・キーン著「日本語の美」中公文庫2000年1月25日発行)。明治15年4月6日、岐阜県岐阜町で暴漢に短刀で胸を刺されたとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ板垣退助しか印象になかっただけに意外な感がした。息子を期待していたのに女ばかり生まれるのでつい不満が出たのであろうが、日本のジャン・ジャック・ルソーといわれた板垣退助の愛すべき一面かもしれない。
 このとき板垣は自由党の総理で100名以上の自由党員を前に自由民権運動弾圧に対する熱弁をふるって会場を出たところを背後から襲われたもので、傷は浅く一命を取りとめた。自由党史には板垣の「自由は死せず」の叫びを記しているが、どうやらこのように叫んだかどうか疑わしいらしい(森川哲郎著「日本史暗殺100選」・秋田書店)。歴史は美化され勝ちである。
 犯人は27歳の小学校教員で動機は「尊王の大義のために民権自由の国賊を倒す」というものであった。板垣は土佐藩士で藩主山内容堂(二十万二千石)とともに倒幕王政復古に力をつくし、板垣退助指揮の土佐藩は戊辰戦争に奥羽へ転戦,会津若松城攻めに功を現した。明治新政府では西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信らと参議の職に就いた。ところが岩倉具視、大久保利通のやり方を批判して下野、人民の自由と民権の確立が急務と考え、民選議員設立の建白書を左院(当時の大政官職制では正院,右院あり)に呈する。このニュースが翌日の「日新真事誌」(イギリス人、J・R・ブラック発行の新聞・明治7年1月18日)にのり、国民の知るところとなった。板垣は慈善事業や社会運動の分野でも活動していたが、総理を務めた自由党は日本初の政党として明治13年10月結成された。この政党は自由と民権の伸長と立憲政体の樹立を目指すものであったが、中には過激な擧に出る者もいた。このため政府は集会条例を改正して厳しく取り締まった。板垣と参議を務め、大蔵卿であった大隈重信が憲法制定をめぐって、イギリス流憲法を主張してプロイセン流憲法をとる岩倉具視、伊藤博文と衝突、下野を余儀なくされた。明治14年4月には立憲改進党を結成,自由党とは一定の距離を置きながら党首として自由民権運動に加わる。結局、明治14年10月明治天皇は明治23年を期して国会を開設する旨の詔書を発布するに至る。
 第一回国会が開会されたのは明治23年11月25日、チョンマゲ代議士も登場した。この日衆院は最初からもめ、仮議長の曾爾荒助が失言したため謝罪させられた・これが帝国議会の失言の第一号。その失言は「15分間ほど休んだら、諸君の頭も冷えてよいだろう」であった。歴史はおかしなもので十数年後に板垣と大隈を結びつけ、明治31年6月、初めての政党内閣「隈板内閣」が誕生する。総理は大隈、内相が板垣であった。この年の12月18日ともに参議を務め、征韓論で下野、西南戦争で賊軍となった西郷隆盛の犬を連れた銅像が上野公園に建てられた。建設委員長は樺山資紀伯爵(初代台湾総督・西南戦争では熊本鎮台の参謀長・海軍大臣・海軍大将),徐幕委員長は川村純義伯爵(西南戦争では征討参軍・海軍大将)であった。
 当時、板垣退助を刺したのに新聞が愛国者扱いにした犯人は懐には「扶桑新誌」一冊と「明治日報」一葉を持っていた。流行した言葉は「文明開化」であった。家庭では絵入り自由という新聞が読まれていた(篠田鉱造著「明治百話」下・岩波文庫)。「絵入り自由新聞」はジャーナリスト吉田健三が明治15年9月創刊した新聞で、板垣退助の名で購読勧誘のハガキを自由党員に出し読者を全国に得たという(今吉賢一郎著「毎日新聞の源流」毎日新聞)。
就学率は明治16,17年ごろで早くも50%を超えていたというから小学校の先生はそれなりに勉強していたのであろう。犯人は尾張藩(六十一万九千石)の士族で勤皇の家柄といわれる。戊辰戦争の際、江戸に向かう東征大総督有栖川宮熾仁親王の護衛に尾張藩編成の豪農を中心とした民間の有志からなる部隊が当たっている。
 板垣退助は明治33年に伊藤博文が立憲政友会を組織するや政界を引退。時に63歳であった。松井須磨子が島村抱月の後を追って自殺した大正8年、82歳でこの世を去る。明治の歴史はあらなえる縄の如く絡み合って展開する。明治維新で主導権を握った薩摩、長州、土佐、肥前の勢力がついたり離れたりまたついたりして権謀術数のうち時代とともに流れてゆく。その中で生まれた一つ一つのドラマがなかなか面白い。

(柳 路夫)

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