2008年(平成20年)2月10日号

No.386

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花ある風景(301)

並木 徹

2・26事件を考える

  2・26事件生き残り最後の青年将校の手記という、黒崎貞明著「恋闕」(日本工業新聞刊・昭和55年2月26日発行)を手にする。28年前に出版された本である。面白くて一気に読んだ。2.26事件に連座した要注意青年将校ながら満州で黒崎遊撃退を組織して大活躍し、陸大に進み、参謀となって死闘を続けるガダルカナル戦を指導、終戦時には東条英機大将に自決せずに天皇陛下に責任がいかないよう戦争裁判に出て戦争の全責任をかぶってほしいと勧告するなどその人生は波乱万丈である。
 黒崎さんは陸士45期で昭和4年4月陸士入校、昭和8年7月卒業と4年4ヶ月も在学している。予科時代、同志的な同期生と語り合う。日本の状態を憂いるようになり、日曜外出には海軍の首領、東郷平八郎元帥、加藤寛冶大将、末次信正中将,眞崎勝次少将らを訪問、話を聞く。第1中隊第1区隊長であった村中孝次中尉(陸士37期・2・26事件の首謀者の一人として処刑)に呼び出され訓戒を受ける。隊付きは郷里の徳島歩兵43連隊。連隊長は三宅一夫大佐(陸士15期)であった。三宅大佐はソ連大使館付き武官兼スエ―デン公使館付き武官でロシア語に堪能で、隊付きの間にロシア革命やソ連の実情についての話を聞いたりした。連隊長は後に昭和14年3月には国立大学となったハルピン学院長となっている。
 隊付きが終わって本科に戻ってきた昭和6年9月18日に満州事変が起きる。このころの日本は東北地方が冷害に見舞われ、凶作で娘の身売りが増加した。「何が彼女をそうさせたか」の言葉が流行した。満州事件をテコにして国内不安の要因を払拭しようといろいろな不祥事が起きる。3月事件、10月事件がそうであった。10月事件を契機にして中央幕僚と青年将校の間に分裂反目が起きる。その決定的な違いは「幕僚たちの改革案は自ら権力を掌握し手、その権力をもって国政の改革案を断行せんとする幕僚ファッショに通ずるものであり、青年将校のそれは、革新のために己を犠牲にする捨て身を本義とし、必ずしも軍事政権を主張するものでなく、速やかに対ソ戦対応に邁進せんとするものであった」と黒崎さんは主張する。要注意将校の偽らざる気持ちであろう。
 昭和11年2月26日事件が起きた時、黒崎中尉は奉天にある満州第一独立守備隊司令部の情報係将校であった。事件については事前に知らなかった。司令官は奇しくも三宅一夫中将であった。2月28日決起部隊が反乱部隊となり、満州の各部隊にいた要注意将校は一斉に逮捕された。黒崎さんも捕まった。ときの関東軍憲兵司令官は東条英機少将(陸士17期・昭和10年9月就任)であった。「日本憲兵外史」はその横顔を次のように伝える。「異色の憲兵司令官で,着任時の訓示に顔写真を添付し、全満州の憲兵分駐所まで配布して司令官の意図徹底を期した。(略)いわゆる”カミソリ登場”の異名をつけられ八面六臂の活躍をしたころであった」外史にはこんなエピソードがある。捕まった中に奉天野戦兵器廠の西山敬九郎砲兵少佐がいた。西山少佐は満州事変の殊勲により功五級の金鵄勲章を授与され、当時の年金350円を、すべて部下の中の困窮留守宅へ送金していた血も涙もある武人であった。憲兵隊はその扱いに苦慮したが結局は釈放した。
 黒崎中尉は代々木刑務所に護送され取り調べを受けることになる。ここで「西田哲学」から「カント」「デューイ」を勉強する。刑務所内では手旗信号やモール信号で挨拶したり励ましあったりしたという。この刑務所の中で黒崎中尉は死刑の判決を受けた人々の処刑の銃声を聞く。7月12日である。同期生の野重7連隊の田中勝中尉と砲工学校学生だった安田優少尉(陸士46期)は刑務所を出る際、黒崎さんに向かって「死ぬなよ。後を頼む」と強い口調で叫んで刑場の露と消えた。黒崎さんが不起訴で釈放の日、北一輝は「当分戦争はしてはいけません。ことに支那とはネ。これは北の遺言です」といった。
 原隊復帰―停職―復職―黒崎遊撃隊組織―満州題独立守備隊題15中隊第4中隊長となる。大尉に進級。このとき第一独立守備隊司令官からチチハル駐屯の第7師団長に栄転された園部和一郎中将(陸士16期・陸大25期恩賜)から陸大進学を勧められる。先輩の青年将校たちは陸士の成績の良い人が多かったが、意識的に陸大受検を拒否し隊付きを希望していたのである。陸大の初審は昭和14年3月7新団司令部で行われた。第1次試験に合格後もノモンハン事件で奮戦する。2・26で刑務所に入った者は合格させないであろうと言われていたが、11月末の第2次試験を受け、三笠宮崇仁殿下(陸士48期)とともに合格する。陸大55期で70名が合格した(昭和17年)。同期生は12名がいたから受験が遅かったというわけでもない。上司に恵まれ、上司に人を見る目があったということであろう。
陸士の教育について黒崎さんは「国家護持の大任に当たるものは、自ら最大の犠牲者たることをむねとせよ」「日本の保全と発展は、国民が天皇のもとに団結し,その秩序を守って協力することによってのみ求められる」この二つの信念が育成されるように教育が行われたという。それゆえに東条関東軍憲兵司令官に「黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである」と言われた時にも「不逞の輩とは承服できません。私は反乱を起こそうと思ったこともありません」と抗議する。代々木刑務所をでる時もみんなが署名したという陸軍大臣あての誓約書にも「軍人として本分にもとるようなことをしたつもりはない。ここで署名をすることは刑務所に残っている同士も軍人の本分にもとっていることになる」と署名を拒否する。その反骨精神が上司から信任され、部下から信頼されたのであろう。
 題名の「恋闕」は著者の気持ちを十二分に表している。

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