2008年(平成20年)2月1日号

No.385

銀座一丁目新聞

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花ある風景(300)

並木 徹

語り伝えよ、岡田資中将の「法戦」を

  戦後、B級戦犯として、一人責任を取り処刑された東海軍司令官、岡田資中将は処刑前日、B、C級戦犯や家族の面倒を見た笹川良一さんへ手紙を出している。
 「前の手紙を出してまた矢継ぎ早やに出します。是が絶筆となりました。今夜半を静かに待機する身となりました。私としては覚悟のことが予定通りきたのに過ぎませんが、後の青年に与える精神的打撃が小さくないと思ひそれが気になります。でも彼らには大乗仏教の本筋をあらかた打ち込みましたので後は大丈夫と思います。(中略)私に関しては元より、あの青年達のために与えられた大兄の太慈悲に対していかに御礼申し上げてよいか分かりません。所謂無所得とは云ひ条、必ず善根は大兄に善果報をはこぶでしょう。国破れて徒に将領の生き延びる事のつらさは、是で解消します。人生の最後に、多少の光芒を曳き、時代の青年を多少とも照らすよすがともなれば幸甚です。(後略す)」
 この岡田中将の絶筆は大岡昇平著「ながい旅」(新潮社・昭和55年5月15日発行)から引用したもので、著者はここで、「岡田中将の関心は常に日本の将来に向いており、青年をへこたれぬようにすることであった」と記している。特攻生みの親、大西滝次郎海軍中将も自刃の際「一般青壮年に告ぐ」の遺書を残し、「日本人たるの矜持を失うなかれ、諸氏は国の宝なり」として「日本民族の福祉と世界人類の和平のために最善を尽くせ」と戦後の日本を青年たちに期待した。
 笹川さんは当時は衆院議員でA級戦犯不起訴組であった。岡田中将は巣鴨プリズンにいる間、卑屈にならず散歩の際でもうなだれることなく、顔を上に挙げて歩るいていたという。同じく巣鴨にいた笹川さんは「あっぱれなり岡田中将。全く頭が下がるほど、立派であった」と書き残している。
岡田中将に絞首刑の判決が下ったのは昭和23年5月19日であった。遺書「毒箭」には「真綿をちぎったような白雲が右から左へ、一片また一片、悠々と浮かび流れゆく」と王翰作の漢詩を厚い壁に対して吟じたとある。

 葡萄美酒夜光杯(葡萄の美酒、夜光の杯)
 欲飲琵琶馬上催(飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す)
 酔臥沙場君莫笑(酔うて沙場に臥す、君笑うこと莫かれ)
 古来征戦幾人回(古来征戦幾人か回る)

「古来征戦幾人か回る」に岡田中将の万感の思いがある。岡田中将は米軍がさばく戦争犯罪はいわれなきものであるとした。それは、無差別爆撃をし市民を多数犠牲にしたB29の搭乗員は捕虜ではなく「戦争犯罪人である」とした。日本側の処刑は何ら違法ではないとし法廷で断固として米軍と戦うことを決意、罪を一人で背負い絞首刑に処された(昭和24年9月17日)。
岡田中将の最期をみとった教誨師田島隆純さんは次のように語る。
「岡田中将は単に巣鴨死刑囚棟での異彩ある存在だったばかりでなく、今次大戦の落とし子たる所謂戦犯者の中でも、これほどの人物は珍しかったに相違ない。東海軍司令官として敵飛行士の処刑の責を一身に負った氏は、19名の旧部下を率いて立った横浜第八号法廷を、軍人生活最後の死に場所と定め、自らこれを法戦と名づけていた」
日本人よ、岡田資中将のこの法戦を後世に語り継げてほしい。岡田中将を題材とした映画「明日への遺産」(監督・小泉堯史、主演・藤田まこと)が3月1日から全国で公開される。なお、昨年11月20日号本紙「茶説」を参照されたい。

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