2007年(平成19年)10月1日号

No.373

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追悼録(289)

数字に強い男・桧垣常治君逝く

  毎日新聞時代一緒に仕事をした桧垣常治君が死んだ(6月17日・享年82歳)。戦友と言っていい存在であった。昭和38年8月、立川熊之助さんが大阪本社の社会部長(21代)就任とともに桧垣君は大阪の社会部員から、私は東京社会部からそれぞれ大阪社会部のデスクになった。これが初対面であった。新任のデスク同士は何故かすぐ息が合った。デスクの布陣は桧垣、私のほか大久保文男さん、北爪忠士さんの4人であった。4人は今、振り返ってみるとよいコンビであった。桧垣君は懐の深い人徳の記者であった。部下から慕われた。その後東京社会部でも一緒にデスクをし、共に役員になり、会社経営に携わった。
労坦になったとき、組合幹部に会社経営を説明する際、メモなしで細かい数字を次から次へと挙げる特技にはびっくりした。経営の数字を手帳に細かい字でびっしり書き込んで暇があれば覚える努力をしたという。姫路高校、京都大学で学んだだけあって記憶力は抜群であったようである。毎日を卒業して広告会社「万年社」に行ってもその博覧強記ぶりは並みいる広告マンを驚かせたと聞く。
野球もうまく、投手として姫高時代バッテリーを組んだ浜田禎三君も社会部にいたので対朝日戦は連戦連勝であった。マージャンも好きであった。1年半で大阪社会部生活を終える私のために盛大なる「送別マージャン大会」を開いてくれた。初めてのことであった。
桧垣君から直接聞いたことはないが、むしろ黙っていたのかもしれない。戦時中の昭和20年1月、陸軍特別甲種幹部候補生第1期の工兵科の学生として松戸の工兵学校に入校、大いにしごかれた。4月には久留米連隊に移動、訓練に励んでいるうちに敗戦となった。沖縄に派遣される予定であった。命拾いをしたわけである。8月には軍曹から曹長に位が上がった。彼は背も高く体もがっちりしていたから工兵向きではあった。この話は大連2中から法政大学に進んだ親友の大友親君から手紙で松戸の工兵学校で中隊は違うが「特甲幹第1期(工兵)に毎日新聞にいたことのある桧垣を知らないか」という知らせがあって初めてわかった。縁は異なものである。
このころ、私は陸軍士官学校の士官候補生で神奈川県座間で歩兵の訓練を受けていた。2月から3月にかけて岐阜の連隊で隊付き教育、8月は西富士演習場で野営演習をしていた。階級は軍曹であった。
彼が東京代表のとき私は西部本社代表であった。彼が私に忠告した。「西部本社は組合が強い所だ。別に構える必要はないよ。本音を言えばよい」私はその通りにした。別に問題は起こらなかった。むしろ西部本社の社員たちは会社再建のために懸命に汗をなしてくれた。
6年半いたが人情の厚いよいところであった。
10月26日大阪で敏子夫人も出席して「しのぶ会」を開き、彼をしのぶことになっている。

(柳 路夫)

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