2007年(平成19年)10月1日号

No.373

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安全地帯(192)

信濃 太郎

「責に生き責めに死するは長(おさ)たらむ人の道なり憾みやはする」
(西村琢磨中将の辞世)

 松浦義教著「真相を訴える」―ラバウル戦犯弁護人の日記―(元就出版社・1997年7月出版)を読む。ラバウルで結審した戦犯裁判は203件。うちインド人・中国人労務隊関係が183件、そのうちインド人関係が104件、死刑判決は90人に及ぶ。松浦さんはラバウルで終戦を迎えた第38師団参謀、陸軍中佐である(陸士42期)。オーストラリア軍直轄のBC級裁判で弁護人を務め、処刑された人々の遺書・歌などの貴重な資料を秘匿して復員した。
 多くの処刑者は無実の罪を着せられて、従容として散華した。松浦さんは「死刑囚はなぜ毅然と死ねるのか」という人間の根源的な問題を追求する。死刑囚・青木伍長(補助憲兵)は「今日のことかれ驕れる限りなり真黒き天井じっとみる」と理不尽な裁判に激しい怒りを見せる。この誰しもが持つ深い怒りが心の奥底で無意識に死の恐怖と拮抗する。不安定で動揺する均衡である。自然な本能として安定した均衡を求める。そこの生まれたのが「敗戦の犠牲・祖国再建の礎」の目標である。それを裏付けるのが「恥の意識」であると解釈する。処刑された軍人たちの遺書・歌・俳句は涙なくしては読めない。心がゆさぶられる。
西村中将(陸士22期・62歳・終戦時、ジャワ・マドウラ州司政長官)は昭和26年6月11日4人の海軍軍人とともにマヌス島で処刑された。近衛師団長としてマレー・シンガポール作戦に参加、マレー作戦中多数の豪州兵・インド兵の負傷者を遺棄して死に至らしめたという罪状であった。この作戦で師団長だけが絞首刑とは奇異である。もっとも裁判では西村中将は「すべて私の命令である。部下には全く責任はない」と発言して多くの部下の命が救われた。冒頭の辞世の歌を詠む。ともに処刑された津穐孝彦海軍大尉(アンポン島での俘虜殺害の罪・山口・39歳)も「日の光受けてかげなき朝の露」の句を残す。津穐さんは内地で拘引されるとき村の村長で村人の敬愛をうけていた。ニューギニアの特水勤17中隊長、山岡繁大尉(インド人俘虜殺害で絞首刑)は「浜までは海女も蓑きる時雨かな」と死を直前にした自分の心境を瓢斉の俳句に託す。
ブーゲンビル島の87警備隊司令加藤栄吉海軍大佐(海兵46期)は通敵原住民処刑の訴因で昭和21年8月2日処刑された。部下の高橋海軍中尉は「ぱぱぱっと響きこだます銃声にわが身ゆらいで頭垂れ塗る」と慟哭する。
同書に寄れば、今村均第8方面軍司令官は昭和21年7月26日夜「自決をもって君国に罪責する」と自栽を図られたが果たさなかったとある。今村さんが獄中で沈思の結論は「克己」であった。松浦さんは「克己とは、困難にのぞんで自己の主体性を崩さぬことであり人間最後に拠るべき自立であろう」と説く。
ナウル島で5人の豪州人を処刑した罪で刑死した佐久間亮海軍大尉の辞世。「聖戦の散りて逝きたる懐かしの戦友を慕いて吾は逝くなり」、同じく坂本忠次郎海軍中尉の辞世。「同胞の犠牲なればすめろぎのいやさか祈り吾は散りゆく」
東京裁判をはじめ各地で行われた戦争裁判は勝者が敗者を裁いた裁判である。A級B級C級の呼称の違いはあっても中身の違いはほとんどない。日本の再建を信じて異国の地に果てた、この人たちは「法務死」として靖国神社に合祀されている。戦後を生きる日本人として靖国神社に参拝するのが当然であろう。
最後に宮崎凱夫海軍大尉(第10海軍警備隊分隊長・海兵68期・昭和22年9月25日・銃殺刑)の辞世の歌を紹介する。「思うても術なき身としりながら皇御国の道はいかにと」
時に26歳。国を思って死んでから60年、国民に国を守る気概なきをいかにせん・・・。出版されてすでに10年たつも熟読玩味すべき本である。

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