1998年(平成10年)7月10日(旬刊)

No.45

銀座一丁目新聞

 

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ゴン太の日記帳 (11)

目黒 ゴン太

 最近、1人で道を歩く時、1人で電車に乗った時、1人で店に入り、買い物をする時等、常に1人でいる時に感じるのが、多くの人々が、周りの人々(他人)に“変”に思われるのを避けようと心掛けているのではないかと思うのだ。

 多くの人々としたが、自分自身もその中の1人である。家を一歩出ると、そこは公共の場である。1人1人が、それぞれ全く個有の価値観を持ち合わせているのは、言うまでもなく当たり前である。だから、もちろん偶然の、同じ時、同じ場に単に居合わせただけの人。そして、その際、正に初めて見る人が、何を考えているかなど、自分が理解し得ることなど不可能ではある。しかし、一度公共の場に出た限り、そこには、モラルだとか、秩序等といったものを守らなければならないと考えている。いや、いちいち考えるまではせずとも、大半の人々が、気には留めているのは、容易に把握できる。そして、その大半の人々は、同時に周りと違う行動を取らないように心掛け始めるのだ。そして、今度は少しでも、自分達の持つモラル、秩序の意識から、はみ出した行動を取る者に過剰に反応示し始めるのである。

 確かに、少なからず、あからさまに異常な行動を取る者もいる。しかし、自分が見てきた限りでは、それが主とは思わない。大半は、笑う、話す等の特に異常な行動形態を取っているとは思えないものに対してまでも、自分を含めた場に居合わせる大半の人々は、嫌悪感を表したり、にらみつけたり、時には、注意したりさえする。「共同生活を営む上で、モラルを守らねばならず、その為には、必要な自制である。」と、今までは自分自身考えていたし、多くの人々が賛同する意見に思う。だが、いくら公共とは言え。皆、同じ様に顔をしかめ、同じ様に無関心を装ったふりをして、互いにけん制し合うのが社会的通念としてもモラルだとするならば、そんな人間的なものを否定するまでの行き過ぎたものとして考えるべきに思う。要は、本来人が人として普通にあるべきものさえ持ち合わせていれば、大抵、こんな機械的な表情しかすることしか許されない秩序を作らずとも、丸くおさまる訳で、こうして見ると、やはり、自分達の周りの“普通(NORMAL)”とする概念がなくなってしまっているのかと思う。

 

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