1998年(平成10年)7月10日(旬刊)

No.45

銀座一丁目新聞

 

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連載小説

ヒマラヤの虹(16)

峰森友人 作

 タクシーはポカラ・カトマンズ間の中間にある交通の要所ムグリンの手前から、車体をきしませながら山峡を北に上っていった。時折行く手が開けたかなたには白い頂きが見えた。ヒマルチュリ(七八九三メートル)やマナスル(八一五六メートル)、ガネッシュ・ヒマール(七四〇六メートル)である。

 ゴルカにはムグリンから一時間足らずで着いた。学校があり、ホテルがあり、中心部のバス停の広場には店が集まる。山を越え、谷を越えて奥地の村人たちがどうしても必要な物資を調達にやって来る。ネパール王国建国の祖、プリトビ・ナラヤン・シャーを記念した王宮は急な坂の上に造られていた。

 古都ゴルカはさすがに独特の雰囲気があった。しかし慶太はウダヤにバックパックを背負わせると、マヘシュが書いてくれた地図を手に先を急いだ。町を出るとまもなく、急な下りになった。ヒマラヤ山麓特有の谷の底に向けて一気に駆け下りる道である。じっとしていると肌寒い乾いた空気にもかかわらず、慶太の顔からは汗が噴き出した。セーターを脱いで腰に巻く。マヘシュが書いた地図によれば、トリジャの村チョルカテは谷底の川を渡ればすぐである。時計の針は十二時二十三分を指していた。ポカラを出てから五時間半、ゴルカからは一時間十五分がたっていた。

 慶太とウダヤがチョルカテの集落のはずれにあるトリジャの家に着くと、顔に深いしわのあるトリジャの母が娘は草刈りに出ていると言った。行き先を聞いて、二人はすぐにトリジャの所に向かうことにした。先程通ってきたのとは反対方向に道を取り、すぐに沢を渡った。道は沢に沿って上り、約二十分上ったところで沢を離れ、別な山の斜面を巻いた。さらに行くと、また沢に出た。それを渡って沢沿いに細い道を上って行く。ウダヤは一度も立ち止まることなく、あたかも何度も通ったことのある道であるかのようにひたすら前進し続けた。トリジャの家にバックパックを置いて空身になったウダヤの足取りは軽快だった。乗り物はなく、電話もない山間部での通信はメッセンジャーを務める若者たちの足が頼りである。赤十字や国際機関をはじめ、山間部で開発援助活動をする組織にとっては、まじめで、地理感覚が確かで、健脚のメッセンジャーの存在は欠かせない。ウダヤはまさにその能力を備えた青年だった。

 二人が沢沿いの道を登っていると、行く手から細い山道をふさぐように薮の固まりが近付いて来た。人間の背丈よりはるかに高く、人間の体の幅の何倍にも束ねた草の山を背負って人が下りてきているのである。人の姿は背負った草の中にすっぽりと包み込まれて、男なのか女なのか、大人なのか子供なのか、まったく識別出来ない。背負った人に見えるのはただ自分の足元だけのようだ。草の山が道幅より広くてすれ違えないことから、ウダヤが沢とは反対の山側の斜面を二、三歩ひょいと駆け上った。慶太もこれに続こうとした。が、左足を斜面にかけ、さらにその上に上げた右足が草を踏んだために、登山靴がすべって、慶太はそのまま斜面をずるずると滑り落ちた。足が山道に着いて四つんばいになった時、草の山はすぐ目の前に迫っていた。今慶太には地面しか見えない。急いで立ち上がろうとした瞬間、その草の山を運んでいる人の足元が見えた。小さな足に、薄いピンク色の小さなゴム草履。草の山を運んでいるのは女だった。慶太は立ち上がりざま、かろうじて下から女の顔を草の中に見た。若い女。

 「トリジャ!」

 思わず叫んだ。その女がトリジャだと思ったのはただの直感だった。会ったことも写真を見たこともない。ただトリジャがまだ若い女で、今草刈りに行っている。草の山は慶太に行く手をふさがれて動きが止まっていた。

 「トリジャ、だね?」

 今度は確認するように聞いた。草の山はじっとしている。背中の荷に覆いかぶさられてうつむいたままの女は、慶太の姿も顔も十分には確認出来ないに違いない。それに聞いたこともない声。女は驚いている。大きな草の山が微動だにしないことで明らかだ。それまで一段高い山の斜面で様子を見ていたウダヤが飛び下りてきて、草の山に向かってネパール語で話しかけた。母から聞いてここまで探しに来た、とでも言ったのだろう。じっとしていた草の山はその時初めて、前後にうなずくように動き、か細い女の声がした。

 「下の村に入る別れ道にあるチョータラで待っていて欲しいと言ってる」

 ウダヤが通訳をした。チョータラとは、石を積んで上を平らにした休み場である。大きな荷物を背負っている時、道から背中の荷物の方に仰向けに倒れると、荷物がちょうど休み場の上に載るような高さに造られている。ウダヤが慶太に通訳するのを聞いた草の山は、そのとおりというように、背中の大きな荷をゆっくりと揺すった。

 ウダヤが先に立って歩き出した。来る時は気付かなかったが、沢を渡ったところにチョータラがあった。ゴルカで物資を調達した人たちはさらに山奥の村に帰る途中、このチョータラで一休みするのだろう。慶太たちが待っていると、草の山はゆっくりと下りて来て、ついにチョータラにたどり着いた。女が後ろに倒れるようにしてチョータラの上に背中の荷を置こうとした。慶太が急いで上からその荷を引っ張り上げようとしたのと、女が草を束ねていた太い布の紐を額からはずすのが一致して、草の山は慶太の方にどっと倒れて来た。女は自由になって、初めてその顔と姿のすべてを現した。すらりとした細い体に染めがはげかかった薄茶色の粗末な生地のサリー。これまで見たネパールの女性の誰よりも背が高く見えた。女は肩にかけた濃紺のショールで額の汗を拭き、同時に額にうっすら残った担ぎ紐の跡をもみほぐした。

 「トリジャだね?」

 慶太が直接英語で語りかけた。女は軽く首を右肩の方に倒した。ネパール人特有の肯定の仕草である。日本人が首を前に振るのと同じである。

 「突然こんな所まで会いに来たので、びっくりしただろうね。ごめんね。でもトリジャに会えてよかった」

 慶太はゆっくりとした分かりやすい英語で続けた。通訳兼ガイドとして仕事をしているトリジャである。もちろん慶太の話しかける英語は十分分かっているようである。

 「実はどうしてもトリジャに聞きたいことがあって、マヘシュに教えられて、ポカラから来たの。さっきトリジャの家に行って、お母さんから草刈りに行ってると聞いて探しに来たんだ」

 慶太はトリジャの反応をうかがいながら、ゆっくりと切り出した。マヘシュの名を出したので、トリジャも笑みを浮かべた。マヘシュを知っている人ということで少しは安心したのか。マヘシュと違い、トリジャは愛らしい笑みを持っている。しかしその愛らしさにはどこか暗い陰がある。

 そばでウダヤが何気なく聞いているので、

 「ここでトリジャとちょっと話したいから、先に帰ってトリジャのお母さんにそう言ってくれる?トリジャの家で待っていてくれるといいから」

 と言った。ウダヤは「ウンチャ」と日本語のハイの返事をすると、チョータラから飛び降りて、チョルカテの方へ駆け出した。慶太は荷物を下ろした後もずっと道に立ったままのトリジャにチョータラに上がるよう声をかけた。トリジャは素直に上がってきて、慶太の前で戦国武士のように両膝を組んで座った。

 「トリジャは国際赤十字の人のアシスタントをしているよね?」

 トリジャはちょっと眉を動かしただけで黙っていた。細いくっきりとしたきれいな眉である。慶太はトリジャがどこか百合と似ている雰囲気があるのを感じて、不思議な気分になった。眉の下の黒い大きな目に憂いが潜んでいた。

 「いや、これはマヘシュから聞いているから。その人は日本人の女の人だよね?」

 慶太はこう言って、じっとトリジャの顔を見詰めて、表情を読もうとした。トリジャは一瞬返事していいものかどうか、戸惑った様子になった。

 「いや、それもいいんだ。そう聞いているから」

 トリジャがすぐに否定しないのも肯定の返事ととれた。

 「その人は何という名前だっけ?」

 慶太はトリジャを追い込まないように、出来るだけさらりと聞いた。

 しばらく間をおいて、トリジャは口を開きかけたが、思い直したように一つ大きな息を吸っただけで、何も言わなかった。

 「トリジャ、実はその人に大事なことを伝えたくって、わたしはニューヨークから来たんだ。だからトリジャが少しでもその人の事を教えてくれると、遠くから来てみてよかったということになるんだけどな」

 トリジャはうつむき加減で、時々下から慶太の様子をうかがう視線を投げた。

 「だからトリジャがその人の名前を教えてくれるだけでも、トリジャの仕事をしている人がわたしが尋ねてきた人かどうかが分かるんだ」

 トリジャの唇がかすかに動いた。トリジャが答えそうだ。慶太はじっと見詰めた。すると小さな声で、トリジャが意外なことを言った。

 「アイ・ドント・ノー」

 「トリジャ!」

 何ということを。トリジャは百合らしき女性と半年以上仕事をしてきたのである。それもたった二人きりで。

 「知らないって?だってトリジャはその人とずっと生活も一緒にしていたんじゃない」

 トリジャはまた黙ってしまった。

 「トリジャ、さっきも言ったとおり、わたしはその人にとても大事な話しがあってアメリカのニューヨークから来たんだよ。だからぜひ教えて欲しいんだ。その人の名前はユリ・オオヤマって言ったでしょう?」

 慶太は焦ってはいけないと思いながらも、ついに名前を口に出してしまった。もしそれを否定されてしまえば、はるばるゴルカまで落胆するために来たことになるのである。

 トリジャが口の中で、ぶつぶつ言っている。今慶太が口にした名前を繰り返しているようである。慶太は重ねて言った。

 「その人の名前、ユリ・オオヤマって言うんだよね?」

 「ノー」

 トリジャが小さな声だがきっぱりと否定した。慶太は一瞬張り詰めていたものがバラバラになるような気がした。じっとトリジャの顔を見据えた。トリジャはうつむいたままであるが、特に嘘をついている様子ではない。

 「ノーと言ったって・・・。その人の名前は、ユリ・オオヤマって言うんじゃないの?」

 慶太が少々語気を荒げて聞いた。否定されて、いつのまにか苛立っていた。

 「ノー、サー」

 トリジャはまた否定した。眉がぴくぴくと動いている。顔を上げたトリジャは懇願するような表情だった。自分は嘘をついていない。その顔はそう訴えている。今度は慶太が沈黙した。トリジャが嘘をついていないのなら、自分にとってはこれでおしまいである。

 百合が赤十字の仕事をしていると判断する材料は、実はこれまで一度もなかった。マデュカールが山で出会ったのは百合だが、女性のことを取材していると聞いただけで、赤十字との関係は確認していない。インディラがトリジャとドルフェルディを訪れたことを確認した日本人は赤十字もかんだ視察だったが、その日本人は今トリジャによって、大山百合であることを否定された。

 慶太の顔には落胆がありありだったのだろう。トリジャが同情するような眼差しで慶太の顔を見た。うつむいて戸惑いを隠す必要はもうなくなったと思ったのか、トリジャの顔はそれまでの緊張から解放されていた。

 「ドルフェルディ村に行った時は、みんなはその人のことを何と呼んでいたのかな?」

 慶太はこれが最後と思いながら、質問の仕方を変えた。その何でもない調子につられたのか、トリジャは、

 「ドクター・ヤマムラ」

 と、さっきは名前を明かすのをこだわったのに、つい口をすべらせた。

 「ドクター・ヤマムラ?」

慶太が繰り返すと、トリジャはびっくりした顔になった。自分が名前を明かしたことに気付いたからだ。トリジャの顔がたちまち紅潮した。そしてうつむいてしまった。

 「トリジャ、ありがとう。その人の名前がヤマムラということが分かれば十分だ。実はヤマムラという人はわたしの探している人とは違う。わたしの探しているのは、ユリ・オオヤマという人で、ドクターではない」

 ドクター・ヤマムラ。それなら最初からそう言ってくれれば、無駄な緊張を味わわなくてすんだのだ。しかしこれで慶太の一縷の望みは確実につぶされた。ドクター・ヤマムラ。そんな専門家なら、百合との接点はどこにもない。国際赤十字がドクター・ヤマムラに委嘱して、ネパールの女性の地位向上に関するノルウエーとの共同プロジェクトの予備調査をしている。よくある話しである。

 「そうだったの。トリジャは日本人のドクターと仕事をしていたの?それが分かっていれば、ここまで来なかったんだけどね。いや、でもよかった。わたしの探している人が人違いだと確認出来たし、トリジャにも会えた・・・」

 慶太がこう言った時、背中の大きな竹かごの中に紙箱や灯油の缶などさまざまな生活物資をいっぱい入れた褐色の顔色の中年の男がチョータラの前で立ち止まった。男は陽気に、「ナマステ」と声をかけてきた。男はチョータラの石垣にもたれて、額にかけたかごの紐をはずそうとしたが、慶太たちの雰囲気が普通でないのを感じたのか、そのまま立ち上がって歩き出した。慶太はほっとした。男が立ち去ると、トリジャがショールを改めて巻き直し、顎の下で強く引っ張った格好のままで、か細いほとんど聞き取れないような声で何か言った。どうやらネパール語らしい。慶太には聞き取れなかった。すると今度は慶太にも聞き取れる英語で、

 「リリジャはもう私を使ってくれないかも知れない」

と言った。

 「リリジャ?それ誰?」

トリジャは答えなかった。トリジャの体が震えている。組んだ足を覆っているサリーを見詰める目は、異様な光りを放っている。涙はないが、ショールで隠した口元は間違いなく震えている。慶太はトリジャの突然の変化に驚いて、適切な言葉が見つからなかった。トリジャの仕事の相手が慶太の探す人とは違うことが分かって、トリジャは落ち着いた表情になったばかりである。それが突然激しく変貌した。

 「トリジャ、そのリリジャとか言う人がどうしたの?」

慶太はトリジャの気持ちを落ち着かせたいと思って、優しく話しかけた。トリジャも少し気を持ち直して、引っ張るようにしていたショールの手を緩めた。

 「リリジャというのは、…」

 トリジャは一瞬間を置いて大きな息を吸うと、

 「リリジャというのは、私が仕事をしている人」

 トリジャが消え入るような声で言った。

 「ドクター・ヤマムラとは別の・・・、ネパールの人?」

 「ノー。ドクター、ドクター・ヤマムラ」

 「その人がどうかしたの?」

 トリジャは答えなかった。何かを考えるように、トリジャはじっと下を見詰めたままである。慶太も黙ってトリジャのその姿を見ていた。しばらくしてトリジャがまた口を開いた。

 「リリジャはもう私と仕事をしてくれないかも知れない・・・」

 「ドクター・ヤマムラはリリジャって言うの?なんかトリジャとよく似た名前だね?」

 慶太がこう言うと、トリジャがうなずいた。

 「それでリリジャはもう使ってくれないって・・・。どうして?」

 「私、もう治らない病気かも知れない」

 とポツリと言った。若いトリジャの表情はこれ以上はないという哀しそうに満たされていた。

 「トリジャ、病気って、どんな病気・・・?」

 と聞きかけて、マヘシュがトリジャには子供が出来ないと言った言葉を思い出した。

 「いいの、もう。結婚しなければよかったんだけど」

 不妊症が故に結婚生活を否定される途上国の女の運命にこの娘もまた打ちひしがれているのか。突然そんな話しを持ち出したトリジャにどこか引っかかるものを覚えながらも、慶太は勝手な解釈をした。トリジャはただ黙って哀しそうな顔を続けるだけである。慶太は時計を見た。既に三時を過ぎている。何とか明るいうちにゴルカまで戻らないと、泊まる場所にも苦労するかも知れない。

 「トリジャ、どうもありがとう。わたしの探している人は人違いだと分かった。トリジャも遅くなったけど、大丈夫かな?」

 トリジャは心配いらないというように、首を横に倒した。そしてチョータラの下の道に下りて、また大きな草の山を担いだ。

 こんな愛らしい娘が、子供が出来ないと言っては離縁を言い渡され、仕事の休みで家に帰っても一日何キロも歩いて牛の餌の草刈りや薪集めをする。何と厳しい社会に生きているのだろう?日本のこの年頃の娘たちは、十二月といえば、おしゃれな服やバッグを身につけて繁華街を闊歩するか、スキーや海外旅行に出かけて青春を謳歌しているというのに。慶太は激しく心を揺さ振られた。再び草の山となって、ゆっくり動き始めたトリジャの後ろ姿を追っているうちに、その姿は次第に慶太の目の中でかすんで消えた。

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