2007年(平成19年)9月20日号

No.372

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追悼録(288)

瀬島竜三さん逝く

  瀬島竜三さんが亡くなられた(9月4日・享年95歳)。陸士44期生。私より15期も先輩である。戦後の陸軍将校団の経済団体である「同台経済懇話会」の会長で折に触れてその謦咳に接した。会としてしのぶ会を定例の講演会の後、開いた(9月11日・ホテルアルカディア市ヶ谷)。正面に遺影を掲げ、在りし日の瀬島さんの写真の数々を放映、最後でみんなで陸軍士官学校校歌を歌い、ご冥福を祈った。
瀬島さんは若山牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」の歌が好きであった。瀬島さんの心境を表現しているのかもしれない。これまで4つの人生があったという。一つが東京幼年学校、陸士、陸大、参謀の軍人人生。二つ目がシベリヤ虜囚の人間苦の時代、三つ目が伊藤忠時代のビジネスマンの人生、四つ目が行財政改革、教育改革などで国の仕事をお手伝いした時代である。土光敏光さんと一緒にされた行政改革は後世に残る立派な仕事であった。
敗戦時自決した阿南惟幾陸相は「勇怯の差は小なり、責任感の差は大なり」と任務に対する責任感を問題にした。瀬島さんも同じであった。仕事に対する責任を自覚して努力を積み重ね、最善を尽くした。
つくづくと述懐する。「人間は自己の力で、如何ともなしえない運命を持っていると考えざるを得ない。この運命の流れには自らの発意や努力ではどうにも抗しようがない」(同台経済人の記録「草萌え」より)。
東京裁判でソ連側証人として出廷したことも含まれるのだろうか。瀬島さんの抑留中の態度についてソ連側資料は伝える。「生産成績は良好である。毎月の生産性は103パーセントである。収容所の規律違反で注意を受けたことなし。考え方は反動である。東京裁判で証人となったにもかかわらず囚人の間では一目置かれている」とある(共同通信社社会部編「沈黙のフアイル」新潮文庫)。
数年前まで同台会で新年の会合で瀬島さんからその年の世界・日本の情勢を聞いた。大変参考になった。同期生で戦後、自衛隊に入った原四郎さんは「瀬島はじっくり腰を据えて天下の情勢分析し、大局を判断させたら日本一である」(前掲「沈黙のファイル」)といっている。原さんの言う通りである。惜しい人を亡くした。

(柳 路夫)

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