2007年(平成19年)6月20号

No.363

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追悼録(279)

軍神・加藤建夫少将の墓に詣でる

  軍神・隼戦闘機隊長、加藤建夫少将は東京・多磨霊園に眠る。霊園内に立つ忠霊塔「敬仰忠烈」(東京都長官・陸軍大将、西尾寿造謹書・昭和20年3月建之)の近くに加藤少将の墓がある。墓誌には「昭和17年5月22日ベンガル湾アレサンシヨウ沖で戦死。行年38歳」とある。平和な時代であればあるほど「陸軍航空隊の至宝」といわれた加藤少将の事績を知って欲しいと切に願う。
加藤建夫は明治36年9月28日旭川市の屯田兵の家庭に生まれる。父鉄蔵は「俺が死んだら軍人になれ」と言い残して日露戦争に出征、奉天戦で戦死する。39歳の若さであった。建夫は旭川中学から仙台幼年学校(22期)に進み、陸軍士官学校(37期)に入る。大正14年7月卒業、兵科は歩兵であった(旭川市に新しく竣工した「北鎮記念館には加藤建夫の陸士時代の成績表が展示されてある)。10月26日歩兵少尉になるが翌日、航空兵少尉になる(航空兵が独立兵科となったのは大正14年5月から)23期操縦学生として大正15年6月所沢飛行学校に入校。昭和2年2月恩賜で同校を卒業する。生田惇さん(陸士55期・司偵)は書く。「大東亜戦争においては64飛行戦隊を率いて累計6回の部隊感状とともに個人感状が授与され『その武功いつに中佐の高邁なる人格と卓越せる指揮統帥及び優秀なる操縦技術に負うものにしてその存在は実に陸軍航空部隊の至宝なり』とのべられている。公平に見て、大東亜戦争の緒戦を成功に導いた武功第一人者である」
 昭和15年9月28日(当時は航空記念日)母校・仙台幼年学校の講堂で後輩の42、43、44の各期の生徒達に「航空決戦」について講演をしている。当時1年生であった野地二見君(陸士59期)は「今でも記憶に残っているのは操縦には神経過敏ではいけない。神経は80l位がいい」という加藤少佐の話だけであるという。のちに軍神といわれた加藤建夫少将の謦咳に接しているだけでも羨ましい。
 私が加藤建夫少将を知るのは「加藤隼戦闘隊」の歌からである。「エンジンの音轟轟と/隼は行く雲の上・・・」当時よく歌われた。昭和15年春広東の基地で丸田文夫隊長が作詞し、南支那派遣軍軍楽隊長、森屋五郎中尉が作曲したものである。いまでもカラオケでこの歌が歌われるのはレコードが灰田勝彦が歌ってコロンビアから発売されヒットし、東宝が昭和19年に制作した映画『加藤隼戦闘隊』の主題歌に使われ、映画も好評であったからである。この映画は人間加藤の側面とともに事実に即して忠実に描がかれた。監督は山本嘉次郎、主役は藤田進であった。特殊技術による空中戦は円谷英二が担当した。
歌の4番「干戈まじゆる幾星霜/七たび重なる感状の/勲のかげに涙あり/ああ今は亡きもののふの/笑って散ったその心」心に残る名曲である。
「笑って散ったその心」を私たちは忘れてはなるまい。

(柳 路夫)

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