2007年(平成19年)5月20号

No.360

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安全地帯(179)

信濃 太郎

「五郎兵衛新田と五郎兵衛米」

  「このあたりは五郎兵衛米といっておいしい米がとれる」という話しを聞いたのいつの頃か。毎年4月、長野県佐久の浅科村(現佐久市)の権現山で開く碑前祭でのことだと思う。私たち陸士59期の地上兵科は戦前,長野県北佐久郡望月町・浅科村・協和村・春日村・南牧村などの一帯に長期演習という名目で疎開した。権現山から眺めるこの一帯のただずまいは牧歌的で頬をなでる風は爽やかである。その五郎兵衛米が作られたいきさつを高木国雄著「佐久の水音」(作品社)で初めて知った。江戸時代の初めに市川五郎兵衛真親が莫大な資産を投じて用水路を築き、荒れた土地に用水を引き開墾して作ったお米が”五郎兵衛米”であった。しかも徳川家康への仕官を断って金山開削と新田開発を願い出て自分の夢をかなえたすばらしいエピソードまで織り込まれていた。
 市川家はもともとは武士で、天文の頃は上杉に属し、武田信玄の東信濃攻略の際にはその先導を務め、武田滅亡後は北条、上杉とも接近して戦乱の世を生き抜いてきた。市川家が150年来土着の南牧(現群馬県甘楽郡南牧村)は関東6ヶ国の北西の要衝で信越国境にあった。このため、徳川家康は口実をつけてこの土地を取り上げようとした。上京して仕官を促す家康と対面したのは本家の久重・29歳、当主真久の長男、市左衛門・23歳であった。武士を廃業して農業に生きる心のうちをこもごも訴える。「曾祖父から私の父まで三代50年の間武功によって与えられたささやかな封土全てを、現在失っております。そこで、戦によって得た土地に頼る生き方はやめたいとの一族の集議を得るに至りました。人と争い、打ち負かして獲得する生活の糧に頼らずに生きることは出来ないものか。それが我ら辺境の小さな一族の願いとなりましてございます」「我ら南牧川一帯にに住まう者は、総勢三千人、譜代の家来筋の者どもはその半分ほどでございます。日頃河岸段丘の田畑を耕すに、この住民全て分け隔てがございません。老いも若きも、我ら支配の者も、狭い階段状の耕地に取り付いております・・・・全てを失い南牧渓谷に籠もっている現在の方がどれほど心安らかな日々か」家康はその誠実な態度と熱意に金山開削と荒地開墾の徳川の朱印状を出した(文禄2年12月16日)今から414年も前の出来事である。人を動かす極意は昔も今も変わらない。とり難いネタを取ってくる新聞記者はこの極意を持っている。
市左衛門らの千曲川左岸の荒地を切り開いて新田を作りたいという夢がいい。「何で好んで荒地開拓に巨資を投ずるのか。なにゆえ峻険な山々を抜いて長躯の水路が必要な場所にこだわるのか」と小諸藩の首席家老に聞かれて「長年の夢、わが祖先からの熱い思いにござる」「自然の恵み豊な耕地に身を置いて、存分に働きたい。その願いのみにござる」と答える。かくして双子岳山頂近くに源泉を見つけ、その源泉から春日村本郷集落でせき止めて取水しそこから奥深い片倉山を穿ち用水路を作り五郎兵衛新田まで用水を引いた。その全長20キロ、に及ぶ。寛政4年(1624年)には50町歩(15万坪)の土地に新田として田植えが始められた。市左衛門は新田の水支配と10町歩の所有が認められた。現在の五郎兵衛用水は大改修工事が行われた結果、望月町、北御牧村、小諸市を潤す用水となっている。
 「刈りかけし田面の鶴や里の秋」 芭蕉(佐久市にこの句碑がある)

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