2007年(平成19年)5月1号

No.358

銀座一丁目新聞

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追悼録(274)

福地源一郎社長を偲ぶ

 毎日新聞の前身の一つ「東京日日新聞」の初代社長は福地源一郎・号桜痴である(明治7年・初めは主筆)。在任11年、後任を関直彦(号橘邨)に譲る。毎年9月に毎日新聞で行われる先覚記者・物故社員追悼会で40人の先覚記者の一人として霊名が記載される。明治39年1月66歳で死去する。西南戦争(明治10年)では従軍記者となり、戦争の報道にあったり、明治天皇に戦況をご報告する。山県有朋の依頼で山県名で西郷隆盛に「降伏勧告文」を書く。「情と理を備えたといわれる名文は評判となった」という(「千里眼」NO96・北野栄三「新聞紙実歴」)。時に36歳であった。昨今でも政治部の名文記者は時には政治家から頼まれて「弔辞」を書く。新聞に「社説」を設けたのも福地である。「軍人勅諭」(明治15年陸海軍人ニ賜ハリタル勅諭)にも福地は主要な起草者となっている。戦時中軍の学校で学んだ私は「軍人勅諭」を暗唱した。忠節、礼儀、武勇、信義、質素のバックボーンは身にしみついている。
 彼の新聞体験はオランダ語体験と同時に生まれている。祖父も父もシーボルトと親交があり、二度目に来日したシーボルトが江戸に出た際、福地が通訳をしている。彼は古いオランダの新聞を、辞書と首っぴきで読んだ(今吉健一郎著「毎日新聞の源流」・毎日新聞刊)。もっとも自伝「新聞紙実歴」には「その文章の読み易からざると事情の解し難きとにて、力及ばずしてこれを断念したり」とある。さらに4度の海外視察に同行したことも外国の新聞にふれる機会が多く、新聞に目を向けることになった。慶応元年(1863年)閏5月、柴田日向守剛中に従って洋行したさい、約10カ月間、パリ、ロンドンの新聞社を歩き回わり、「その内外の政治に関して与論を左右するにものは即ち新聞の力なりと聞き」「時事を痛快に論ぜん」という気持ちが固まった(前掲「毎日新聞の源流」)。彼を驚かしたのは薩英戦争(文久3年・1863年7月2日)における英国紙の議会報道である。英国の軍艦が鹿児島の市街地を焼き、非戦闘員を殺したことに非難したからである。この新聞の姿勢が福地にすくなからずの影響を与えたのは間違いない。
 初めに友人たちと出した「江湖新聞」(明治元年4月)が佐幕的として上野で彰義隊が戦った直後、福地は逮捕され新聞は廃刊になった。福地は渋沢栄一の紹介で伊藤博文(当時大蔵少輔)にあい、大蔵省に出仕する。明治3年11月、伊藤に随行して訪米。翌年5月帰国するが、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視、三条実美など人脈が広がる。その年の10月には岩倉具視に随行して米国、ヨーロッパへ派遣される。「東京日日新聞」が創刊されるのはこの洋行中であった。帰国後、政府部内の友人の反対を押し切って東京日日新聞にはいる。北野栄三は「新聞紙実歴」の著者、福地源一郎は明治の新聞創成期に最も有名な新聞記者として博く知られたと記す。その記者としての素養と見識は幼児から和漢の古典を学び、オランダ語、英語に通じ、諸外国を博く見聞したこと、さらに当時の政権中枢にあった人たちと親交があったことなどによって培われた。さらに、根っこの所に北野がいう「明治の新政府にたいして同質化できなかった。福地には倒された側の人間の意識として、倒した側と同じにはならないもの」があった。「反骨」という表現では収まらない「恨」(えん)が潜んでいたと私には思える。

(柳 路夫)

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