2006年(平成18年)1月20日号

No.312

銀座一丁目新聞

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花ある風景(226)

並木 徹

うす青き太き血管まぎれなく母の甲なる吾が甲なるも

 米国コネチカット州に住むジャッシーいく子さんの歌は暗くて悲しいが骨太で心(しん)がある。彼女のアメリカ人の夫は「肯定的なものの見方に忍耐強さと寛容さが加わって他者を見る眼はいつも温かい」そうだ。いく子さんの性格が招き寄せた「格好の男性」だと思う。彼女の著書「夢の種」(藍書房刊)のはじめに出てくる歌「紺青の夜空に明るき月あれど心砕けて先が見えない」が心に響く。三歳の時、囲炉裏に左手をヤケドした。泣きつづけるいく子を背負って母は月夜の畦道を何度も行ったり来たりする。「ああ、痛いなあ。悪かったなあ」母方の祖母も優しく柔和であった。いい母に恵まれた。大正14年生まれにはいい人がすくなくない。
 4歳の時、何になると聞かれて「国会議員」と答える。中学1年生では浪曲師になろうとして天津乙女の弟子入り志願の手紙まで書く。

 「わが父親はヤクザな父親でありまして左二の腕に鯉の入れ墨あり」
 「弱いから強がり見せて生きてきたのです 極道者に唾つけながら」

 父は腕のいい大工であった。結婚したのは昭和19年で父18歳、、母19歳の時である。女の子は父親に性格が似るというから職人気質と短気さがみられるのは父親譲りであろうか。父は彼女に大工になれといった。意に反して彼女は働いて学費を貯めながら大学へ行き教育者になる。母は女の子4人生んで昭和63年12月22日癌で亡くなった。
 「彼岸花群れ咲く野辺に佇みて母の名呼べば風吹き渡る」

 友人の紹介で東京案内を軽く引き受けたアメリカ人との出会いが縁となり手紙と電話での交際が始まる。お互いの電話代が1ケ月10万を越えるというから異常である。

 「わたくしは後妻・学生・恋女房 蜩鳴いてそうカナカナカナ」
 結婚後大学院に行き博士号をとる。3年間、夫は毎回夜授業が終わるころ迎にきた。片道1時間の距離である。卒業式のとき荘厳な教会で博士になった印のフードを首にかけてもらう彼女を見て夫は目に涙をためていたという。このような男性は日本人にはまずいない。
 「そのままでそのままでいいあなたのこと 足すこともなし引くことも  なし」
 それでも不満が出る。以心伝心が外国人にはわからないらしい。
 「蕎麦の実のとんがりみたいな鋭角は更年期のせいにする」

 この夫婦は仲がいいと思う。
 <私には君が枢軸>変わりない十二年目のあなたの優しさ
 本の題は「夢の種」。彼女の場合、両親が先ず種を撒いてくれたのに感謝せねばなるまい。あとは自力で種から夢を育ててきたといえる。
「夢は夢叶わぬものが夢にして夢という文字草書して書きませ」 
「風に叩かれ人に踏まれてつよくなる青麦のような人生がある」

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