2004年(平成16年)4月20日号

No.249

銀座一丁目新聞

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追悼録(164)

鳩山首相はソ連抑留者釈放に努力した
 

  前民主党代表 鳩山由紀夫さんの講演を聞く機会があった(同台経済懇話会主催・4月12日・アルカディア市ヶ谷)。昭和29年12月総理になってまもなく祖父、鳩山一郎はソ連との国交回復と憲法改正について積極的な意思表明を行った。日ソ国交交渉の中で北方領土四島返還よりも4000人の抑留者即時釈放を求めたという。かって引き揚げ記者であった。興安丸に乗船して中国からの引き揚げ取材もした。思い出は深い。抑留者のソ連からの引き揚げは昭和25年4月22日の引き上げ船が最後となって途絶えていた。日本とソ連の赤十字同志の会談で昭和28年11月から再開される。ナホトカに入港した日赤代表団がソ連赤十字代表への贈り物は「菊の花束、赤十字マーク入りのブローチ、サントリーウイスキー、山口の銘菓、舌鼓など」であった。ソ連側は「こんな結構なものがいただけるなら毎日船が入ればよろしい」と冗談を言った。両者の雰囲気は和やかのもであった(高木武三郎著「興安丸」より)。811名を乗せて興安丸は出港する(舞鶴入港12月1日)。NHKの好意で15人の留守家族の声を吹き込んだレコードをきかせたところ、なんと8人もの相手の主が見つかった。思いもかけずに家族との声の対面を果たした人々は茫然とし、声も出なかった。その反面、親ソ分子が袋叩きにあい怪我をする事件もあった。その後、抑留者は大勢いるのに、帰国者は何故か少なくなる。共同宣言が出るのは昭和31年10月19日。鳩山交渉全権団がモスクワに出発したのは10月7日である。モスクワ入りは10月12日。モスクワから西北2百キロはなれたイワノヴォ収容所に軍の将官クラス、在外公館に勤務していた総領事など幹部クラスの外交官、それに近衛文隆が収容されていた。12日の午後そのニュースは収容所に届き、「これで帰れる」と活気にみちた。
 この日の講演会に出席していた同会の会長、瀬島龍三さんは「貴方の祖父鳩山一郎さんにはお世話になった」と謝意を述べた。昭和31年8月19日、115人の抑留者とともに興安丸で帰国した瀬島さん(帰国団の副団長)はその足で上京、鳩山総理と音羽の私邸で会い、お礼をのべている。一緒に帰国した中には民主運動の指導者、浅原正基が民主グループもおり、船内では一時不穏な空気もあったが、無事に納まった。最後のランチで上陸した瀬島さんは木綿の囚人服姿で「何も語らず、感慨無量という感じであった」という(共同通信社会部偏「沈黙のファイル」より)。
 32歳(大正4年)で代議士になり、71歳で総理になった鳩山一郎は三度組閣した。戦争放棄を規定した憲法改正とソ連との国交回復を最大の目標とし、その一つを果たした。非凡な政治家だったといえる。「鳩山ブーム」を巻き起こしたのはそれだけの理由がある。1959年死去、享年76歳であった。

(柳 路夫)

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