2004年(平成16年)4月20日号

No.249

銀座一丁目新聞

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花ある風景(163)

並木 徹

森繁の靴磨きの幻景

 第12回スポニチ文化芸術大賞のグランプリは作家の久世光彦さんであった(贈賞式は3月9日・東京プリンスホテル)。贈賞の理由は「週刊新潮に連載の『大遺言書』で森繁久弥さんの語りを絶妙で洒脱な読みものにした力量に対して」というものであった。「大遺言書」(2003年5月25日発行)はたしかに面白い。読めば読むほど深い味わいがある。贈賞式の日、会場には森繁さんは「経堂の鰻」の章にでてくる「伸子さん」と姿を見せた。森繁家へきて守田伸子さんは30数年になる。甲斐甲斐しく面倒を見ていた。お祝いのために壇上に上がった森繁さんは何もしゃべらなかった。久世さんは「森繁さんがきてくれただけで嬉しい」と挨拶した。この二人40年以上の付き合いである。少年期をハルピンと大連ですごし、敗戦のとき兄達が満州から引き揚げてきた体験を持つ私には、母親と妻子5人を連れて新京をへて大連から引き揚げてきた森繁さんの話には涙が出た(靴磨きの幻景の章)。敗戦から25年ぐらいまでが本当に困ったという。昭和21年10月日本に帰ってきた森繁さんは33歳であった。当時21歳であった私も勤めていたものの食うのがやっとであった。23年から東京に出てきたが着るものも履くものもなく、苦労をした。あの頃、森繁さんは有楽町か日比谷あたりでしばらく靴磨きをやっていたような気がすると語っている。「けれど記憶があいまいなんです。霧の中の風景みたいに、ぼんやりしているんです」このような、長女の昭子さんも知らない話を引き出せるのは久世さんのソフトな性格の故であろう。
 2年前の文化芸術大賞の式の際、毎日新聞に載った徳岡孝夫君の本に対する久世さんの書評について立ち話をした。徳岡君とは毎日新聞の大阪社会部で一緒に仕事をした仲間で、勉強家の彼から多くを教えられた。久世さんは徳岡君と時々食事をともにする仲で気が合っている風に感じられた。「常に道路の右側を歩んで発言する人」との徳岡評は表現も柔らかく上手いと思った。
 「大遺言書」はいつまで続くのか、挨拶にたった久世さんは「編集長は二人のどちらかがなくなるまでといっているが、年が20歳以上も違う者を並列的に考えるのはいささか不満である。当分は続けます」ということであった。
 

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