2003年(平成15年)8月10日号

No.224

銀座一丁目新聞

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追悼録(139)

かかる軍人ありき

  山中峯太郎著「敵中横断三百里」(少年倶楽部文庫・講談社・昭和50年10月発行)を読む。小学校5、6年生ごろ読んだのだから実に66、7年たつ。「血沸き肉踊る」思いで夢中になった。このころ、野村胡堂の「銭形平次捕物控」を愛読していたので、将来の志望は軍人より刑事であった。中学校に入る時の面接でそう答えたのを覚えている。
 小説の主人公は建川美次中尉(陸士13期、後に中将・駐ソ大使)である。日露戦争の奉天大会戦が始まる寸前、騎兵挺進斥候が使命を果たした決死大冒険物語である。著者の山中さんは陸士19期生で、明治45年陸大(25期)を退校し中国革命に参加、退官後、少年向きの軍事冒険小説を書いた異色の人である。
建川中尉に与えられた命令は次のようなものであった。
 中尉は下士以下五名の者を中隊から選び出し、明後1月9日(明治38年)早朝に出発せよ。遠く敵軍の後ろへ進み、次の任務を遂行すべし。1、敵軍の動きつつある場所と兵力を捜索せよ2、敵軍の防御工事のありさまを詳細に探知せよ3、敵軍の鉄道運送のようす、及び、列車に載せている物を調査せよ4、なしうればはるかに遠く撫順方面の敵軍と土地のようすを捜索せよ、なしうれば敵の鉄道と電信線を破壊し、倉庫を焼き捨てよ。
 建川挺進騎兵斥候は出発以来、敵中横断三百里。幾多の冒険に万死の道をかいくぐり、命令を忠実に果たした。1月28日、総司令部へ「敵は鉄嶺によらず、奉天から日本軍へ一大勝敗を決する攻撃の決心である」と報告した。之により「敵に先んじて全戦線の攻撃を断行すべし」の日本軍の大軍略が決まった。
実は総司令部は次期作戦を奉天を中心とする地区と予期し、敵は果たして奉天に於いて決戦を企図するか、それとも鉄嶺まで退いて日本軍を迎え撃とうとするかその状況判断に迷っていた。このため建川挺進斥候(騎兵第9連隊)のほかに騎兵14連隊の山内保次少尉(陸士14期・後に少将)挺進斥候(兵3人、満通訳1人)を出している。山内斥候は18日間、總行程1000キロ、建川斥候と同じように鉄嶺付近の敵情をつまびらかにして敵は鉄嶺まで後退することはありを得ないことを報告している。萌黄会編「あヽ騎兵」には「酷寒に耐え、虎穴に踏み込み、豪胆沈着幾度か危機を切り抜け、至難の任務を達成したことはまさに驚嘆に値する」と書いている。
 建川中尉はその後、陸大(21期)に進み恩賜。参謀本部第一部長(作戦)。このとき(昭和6年9月)満州事変が起きている。第10師団長、第4師団長を歴任、2・26事件後の粛軍人事で予備役となる。昭和15年、駐ソ大使、日ソ中立条約を締結する。敗戦の年9月、その波瀾の人生を閉じた。
 なお山内少尉は少将まで昇進、昭和20年3月には新潟地区司令官であった。

(柳 路夫)

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