2003年(平成15年)3月10日号

No.209

銀座一丁目新聞

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追悼録(124)

 藤原智子監督の長編映画「伝説の舞姫 崔承喜(チェ・スンヒ)」の映画づくりに携わったものとして崔承喜さんの消息は気がかりであった。新聞各紙が1969年8月8日死んだことを伝えた(2月11日夕刊)のにはがっかりした。。平壌の「愛国烈士陵」に安置され、墓碑銘には「舞踏家同盟中央委員長」「人民俳優」(1956年授与)とあったという。享年58歳。若すぎる死である。生きておれば92歳であるなどと愚痴がでる。
 1911年京城で生まれた彼女は前衛舞踊家、石井漠の門下生になり、舞踊を学びさらに、朝鮮舞踊も取り入れた創作舞踊で日本だけでなく欧米でも公演し「東洋の舞姫」とうたわれた。川端康成、梅原龍三郎、前田青邨らは彼女の大フアンであった。梅原や前田が描いた彼女の自画像が一枚も出てこないのは不思議である。戦後、パリ公演以来のフアンだという周恩来に招かれ北京で舞踊を教えたこともある。映画でもそのシーンが僅かに実写として出てくる。映画にはおさめられなかったが、メキシコ公演のフイルムが現存する。
 夫安漠と娘安聖姫とともに北朝鮮に渡った崔は国会議員にもなり、芸能人に与えられる最高の称号「人民俳優」を授与されている。1958年起きた粛清で文化宣伝省の次官であった安漠の失脚とともにその姿が消えてしまっていた。
この映画を日本人が制作したことに大きな喜びと誇りを感じる。その意味では企画者で映画実現のために努力された岩波ホール総支配人、高野悦子さんの功績は大きい。また資料が極端に少ない中をドキュメンタリー映画としてまとめた藤原監督の手腕も高く評価される。いま北朝鮮とは拉致問題、核疑惑、ミサイ問題などをめぐりきわめて緊張した間柄にある。韓国では既にこの映画の韓国版がソウルなどで上映され評判を呼んだ。北朝鮮での上映も望まれる。「美しい花は嵐を好まない。踊る崔承喜は全身で平和を叫んでいるように私には感じられた」(1955年5月5日の公演を見た作家の火野葦平さんの言葉)と多くの北朝鮮の国民も感じるに違いない。

(柳 路夫)

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