2002年(平成14年)11月20日号

No.198

銀座一丁目新聞

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花ある風景(112)

 並木 徹


 澤地久枝さんが近著「道づれは好奇心」(講談社刊)の中で、2年と50日の沖縄滞在中、琉球大学で半年間講座を持って学生に教えた事を書いている。テーマは「歴史事実へのアプローチ」である。取り上げたものは「竹橋事件」「石川節子」「ニ・ニ六事件」「ミッドウェー海戦」である。ドキュメンタリーを志す者には貴重な話である。38人の学生だけでなく大勢の人たちに聞かせたかったと思う。
 瀬島龍三さん(陸士44期、関東軍参謀、シベリアに抑留)が統帥権を記述した中で「竹橋事件」に言及していたので、澤地さんの「火はわが胸中にあり」−忘れられた近衛兵士の反乱・竹橋事件ー(角川書店)を読み返したばかりであった。1878年8月に起きたこの事件を100年後(本の出版は1978年7月)に資料集め、取材をするのだから大変であったろうと想像した。あとがき「時間への旅」には世の知られない竹橋事件の人と経過の再現を求めての苦労がつづられている。銃殺55、有罪331を含む387人の連累者のうち澤地さんが消息に接しえたのは死刑27人を含めて30人に過ぎないという。
 人はその足跡を、戸籍、寺の過去帳、墓地、墓碑銘などに残す。澤地さんはその地域のパトロールを担当する駐在所まで電話をかけて確かめる。そういえば、ミッドウェー海戦の日米の戦死者の数を初めて明確にしたのは澤地さんである。それが不朽の名作として「滄海よ眠れ」(全6巻・毎日新聞刊)と「記録 ミッドウェー海戦」(文芸春秋刊)として残されている。日本側戦死者3千57名、アメリカ側戦死者362名である。それまで日本側は戦死者の数を4千とも2千5百ともいい、アメリカは約307としてきた。この確認作業がきわめて困難であったことも述べられている。いずれにしても澤地さんの「まず全戦死者の確認」という不退転の決意がこの名作を生んだもとである。
 事実を確かめたいと願う人の心得るべきことが列記してある。労を惜しまず、関係者に会う。図書館、文学館などの資料、個人所蔵の資料から必要事項を「発掘」すること。歩くこと。現地に立つべく努力すること。風に吹かれ、その土地の山容を目にするだけでいい。「出された一杯のお茶でためされることもある」とは心すべきである。
 毎回の講義で好きな言葉、美しいと思う文章を紹介して締めくくりとしている。筆者の好きな言葉があった。「草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府・吾が藩も入らぬ。只だ六尺の微躯が入用」(松蔭・吉田寅次郎)である。この言葉は澤地さんの竹橋事件を手掛けるきっかけとなる。松下村塾の「四百日の塾生」の草莽崛起の思いに触発されたからである。澤地さんは長い旅をしてきた。まだ目的地には到達していない。学ぶこと、伝える事は死ぬまで続くはずである。

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