2002年(平成14年)7月1日号

No.184

銀座一丁目新聞

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追悼録(99)

 今年は199人の犠牲者をだした青森歩兵5連隊の八甲田山雪中行軍の遭難から100年になる。地元では「遭難100周年の式典」が遺族500人が集って開かれ、犠牲者の冥福を祈ったという(6月24日スポニチ)。
 陸士の同期生の集りのひとつである常磐会(5月28日)で青森普通科連隊の連隊長を務めた柴田繁君から珍しい八甲田山雪中行軍の遭難に関する歌詞「陸奥の花」(作詞大和田建樹・作曲北村季晴)をいただいた。この歌は明治の終わりから大正にかけて歌われたそうだ。歌詞は87行もある。柴田君はその歌を音吐朗々と聞かせてくれた。

 八甲田山颪吹き荒れて/み空に散るやむつの花/野辺も山辺もおしなべて
ひとつ色にぞなりにける/身を切る風はさむけれど/国の御盾と武夫の
選び出されし行軍に/進む古参の二百人/幸い多き幸畑に
降りしきく雪は豊かなる/豊年の徴か頼もしき/名も田茂木野の里すぎて
行方険しき九十九折・・・・・

 青森連隊の第二大隊長山口ユ少佐に率いられた将兵210名(下士卒160名、長期下士候補生34名、将校16名)は明治35年(1902)1月23日午前6時20分、八甲田山山腹、青森から五里強の田代温泉まで一泊二日の予定で営門をあとにした。
 青森測候所の記録によると、この日は、雪で西方の軟風、夜は疾風となり、気温は最低冷下8度7、最高零下4度5であった。積雪量は青森1・50b、幸畑2.40b田茂木野3・10b、大峠4・00b。気象概況は23日より北海道から東北地方にかけて、強烈な勢力の寒気団にすっぽりとつつまれている。24日は全国の気圧が著しく上昇し、各地の温度が急速に下降した。北海道は記録的な寒さに襲われた。山口隊はこのような類を見ない記録的な最悪の気象状況のただ中にふみこんだ。歌の文句のように「颪吹き荒れて」であった。猟師さへ危険を感じて通行しなかった積雪期の八甲田山の雪地獄に迷い込んだ。逃れるすべはない。凍死か、窒息死、生き延びられるものは稀であるという。山口隊210名のうち凍死者199名、生存者11名であった。生存者もほとんどが凍傷のため手足を切断という悲惨な結果に終わっている。
 同じころ、弘前連隊の第一大隊第二中隊長福島泰蔵大尉(陸士2期)に率いられた38名は全行程50余里、10泊11日の予定で、十和田、三本木、増沢、田代台、八甲田をこえ一兵の事故者もなく青森へ帰還している。高木勉著「八甲田山から還ってきた男」には次のようにある。
 「気象などはほとんど同じ条件のもとにあったが、それを克服し、乗り越えることが出来たのは、準備に準備を重ね、研究に研究を続けてきた周到さのうえに、ときには大胆時には慎重だった、福島の指揮官、統率者としての能力が十二分に発揮されたからにほかあるまい」

・・・・・・・ 呼べど答へぬ御霊のみ/雪より清き白妙の玉のみとのに遊ぶらん/玉鉾の陸奥山に今もなほ/御代の宝の黄金花咲く

 山口隊は美化されすぎた。福島隊にくられべれば、準備不足だし、冬山の怖さも知らず、無防備であった。また指揮官の指揮ぶりも判断も拙劣であったといわざるをえない。

(柳 路夫)

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