2001年(平成13年)10月20日号

No.159

銀座一丁目新聞

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追悼録(74)

 一人の無名ながら、すばらしい声楽家であり、精神コンサルタントがこの世を静かに去った(10月8日)。名を野村 栄という。享年81歳であった。実は私の兄嫁である。敗戦間もない昭和22年、ハルピンから1歳半の女の子を抱えて兄、卓とともに引き揚げてきた。その一生は苦難の連続であった。それでも愚痴一つこぼさず、笑顔をわすれず、生き抜いた。
 兄、卓は昭和15年3月、ハルピン学院を卒業した〈18期)。栄とはハルピン放送局で知り合い、昭和18年、結婚した。卓、23歳、栄、22歳のときである。長女、史が生まれたのは、広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日である。敗戦10日前である。ソ連軍がやってきたのは8月24日。略奪の限りをつくした。女性は目の前で犯された。難民があふれた。ハルピン在住の日本人7万余をうわまわる8万8千の避難民がなだれ込んできた。子供たちの多くは栄養失調で死に、大人たちも流行した発疹チフスの犠牲となった。
 数年前、栄に当時の模様をたずねたが、多くを語らなかった。卓一家が実家の岡崎に引き揚げてきた時、史の手や足の骨がやせ衰え、栄養失調にかかっていたのを弟たちは記憶している。兄夫婦は難民の地獄絵図をみたのである。やがて兄一家は職を求めて上京、文京区護国寺に落ち着いた。私が昭和23年5月毎日新聞社会部に勤めることになり、下宿を探したがみつからず、やむをえず、兄のところで厄介になった。一週間足らずであったが、兄嫁は嫌な顔せず、面倒をみてくれた。
 栄の母親がえらかった。女でも自立しなければだめだ。手に職を持つべきだとして、栄を武蔵野音大にいれ、ピアノと声楽をみにつけさせた。それをうけついで、栄も史に小学生の低学年のときから、ピアノとフルートを習わした。史は現役で芸大のフルート科に合格した。雨の日も風の日も徹底して先生の下へ通わした努力の成果であった。
 卓は戦後、得意のロシア語を生かす職場がみつからず、業界誌の記者をして糊口をしのいでいた。ところが、無理がたったのか、体調をくずし、昭和29年7月、心不全のためなくなった。36歳の若さであった。栄35歳、史9歳であった。栄は伝を求めて、TBSに就職、女手ひとつで史を育てることになった。
 栄は44歳の時、明治学院大学の夜間部に学士入学、心理学と福祉の勉強をはじめた。このまま放送局にいても、足手まといになるだけ、何か身につけなければと思ったからである。
 卒業と同時にTBSをやめ、東京都下の精神病院にコンサルタントとして就職、時には患者さんに持ち前の美声で歌を歌い慰めたという。甥の結婚式のときだと思う。栄が歌を披露したことがある。あまりの美しい声に会場が静まかえり、思わず聞き入り、拍手するのもわすれてしまったということがあった。何度聞いても聞きあきない。
 史は二児にめぐまれ、小学校の音楽の先生を続け、56歳になるいまも働いている。母親ゆづりというほかない。子は親を見て育つというのは本当のことである。

(柳 路夫)

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