2000年(平成12年)9月20日号

No.120

銀座一丁目新聞

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追悼録(35)

 羽田 澄子監督が記録映画「元始、女性は太陽であったー平塚らいてうの生涯」を撮影している。12月には完成して21世紀のはじめに公開される。
 「製作発表会」(2月10日・東京會舘)では羽田さんは「資料が少ないので今までとっ違った手法が必要、新しい実験をしてみたい」と抱負を語った。
 平塚 らいてうさん(本名奥村明=はる)は昭和46年5月24日、85歳でなくなった。日本の婦人運動の草分けでその生涯を婦人解放につくした。
 25歳の時(明治44年9月)創刊した雑誌「青鞜」に発表した言葉があまりにも有名である。「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
 もともと、「青鞜」は平塚さんを中心とした良家の子女数名をメンバーとして「婦人の中にひそめる天才を見出す」ために同人雑誌の発行を目的としたグループであった。ところが、創刊号の巻頭にのせた「元始、女性は太陽であった」をはじめとするその後のいくつかの文章によってはしなくも女性解放ののろしをあげることになったという(市川房枝さんの46・5・25の追悼文より)。33歳の時、「新婦人協会」により婦人参政権運動をはじめた。昭和21年4月10日日本ではじめて婦人代議士が39人も誕生した時、平塚さんは「見よ、その日は来た・・・今こそ大きな大きな太陽がのぼるのだ」と悲願達成の喜びにむせんだ(朝日新聞社編「追悼録 下」より)。
 この映画の推進者の一人、岩波ホール総支配人、高野 悦子さんは生前、らいてうさんと二回あっており、その印象を語っている。
 「写真で知っていた彫りの深い顔は知的で美しく、白髪で黒っぽい着物姿は上品だった。その小柄で華奢ならいてうさんが女性運動の先駆者、いまも平和運動のリーダーであるとはとても想像できなかった」
 らいてうさんがのべた言葉を自分の胸の中でくりかえし、自分に言い聞かせているという。
 「生きることは行動することである。ただ呼吸することではない」
 「烈しく欲求することは事実を生む最も確実な真原因である」(高野悦子著「母」文芸春秋刊より)

(柳 路夫)

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