2000年(平成12年)8月10日号

No.116

銀座一丁目新聞

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花ある風景(31)

並木 徹

 藤原 智子監督のドキュメント映画「伝説の舞姫 崔承喜」((金 梅子が追う民族の心)が8月19日から10月13日まで東京・神田神保町の岩波ホールで上映される。
 崔承喜といっても若い人は知らないであろう。戦前、石井漠門下に入り、朝鮮の舞踊を巧みに取り入れた創作舞踊を発表。天性の美貌と恵まれた体躯とそのユニークな舞踊で日本人ばかりでなく、アメリカ、ヨーロッパ、中南米の人々を魅了した。
 その公演がいかにすばらしかったかを物語るエピソードがある。
 昭和19年1月末から2月にかけて20日間東京・帝国劇場で開かれた彼女の舞踊公演は連日、満員の盛況であった。昭和19年1、2月といえば、大東亞戦争の最中である。大都市の疎開が始まっている(1月26日)このころ、欧州海域にあった米艦隊がはじめて太平洋戦線に現れ、艦砲射撃に参加。硫黄島では上陸準備のための艦砲射撃と爆撃が加えられ(2月16日)米軍が上陸した(2月19日)。
 南方ではルオット島守備隊700人玉砕(2月2日)クエゼリン島守備隊4000人玉砕(2月4日)の悲報があいついだ。国民が娯楽に飢えていたとはいえ、彼女の魅力が人々の足を劇場まで運ばせたといえる。
 川端 康成も彼女に最大の賛辞をよせ、画家の安井 曽太郎や小磯 良平も競って彼女の肖像画をえがいている。
 崔承喜は戦争中、朝鮮、中国、満州で慰問公演を行っている。雑誌「新女苑」(18年1月号)に署名原稿を書いている。それによると、中国劇壇の第一者と交流し、舞踊や演劇を語り、欧米に優る東洋芸術を築いてゆきたいと誓い合っている。また、公演の忙しい中を
 何とかして自分の東洋舞踊の新作の素材をつかみたいと思い、芝居を見歩き、衣装の参考書や音楽そして文学に現れた王妃の文献を研究することによって、芸術化された中国女性のいろいろな典型をみつけようと努力したという。大変な努力家であった。
 彼女は親日派の芸術家であり、戦後は夫と北朝鮮に帰り、一時は芸術的指導者の立場に立ったが、その後夫の失脚とともに消息をたっている。2年前にガンでなくなったという噂もある。
 この数奇な運命を持ち、微妙な立場ある崔承喜を描く映画に金 梅子は敢然と挑戦みずからも韓国舞踊を踊り、映画の最後を締めくくっている。
 南北統一の道を歩み始めた今、この映画がもつ意義はきわめて大きいものがある。

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