漂泊の歌人西行
湘南 次郎
本誌4月20日号の追悼録「歌人西行を偲ぶ」(柳 路夫氏)の相変わらずの名文を拝読し、堅物の筆者の思いもかけぬ花も実もある艶文に接し、多少知る余聞についてご参考にしたい。
西行法師とは、出自が藤原秀郷流奥州藤原氏のれっきとした鎌倉時代のいわゆる朝廷の院に仕える北面の武士として仕えていた佐藤兵衛尉憲清で、23才で出家遁世した。原因に艶聞が多くあった待賢門院璋子(藤原)(第74代鳥羽天皇の中宮で第75代崇徳天皇の母となるが一説には第72代白河天皇との間の子ではないかといわれる)にもてあそばされ、そして、失恋の憂き目にあったといわれ、人生の無常を感じ諸国を放浪、歌には悲恋を秘めたものも含め、多くの歌を詠よんだ。
「逢ふまでは 命もがなと思いしは くやしかりける わが心かな」
老生の住む湘南には、吉田茂、伊藤博文など名士や、名家のある神奈川県大磯町の国道1号線(東海道)の松並木が残る海側にこんもりとした木立の鴫立沢(しぎたつさわの)古跡がある。西行は、奥州へ向け西下の途中立ち寄り、
「心なき 身にもあわれは しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮」
と詠んだ。江戸時代になって有志が寛文4年(1664)同所に庵(いほり)を設けて俳諧人の名所とし現在も保存され、町立有形文化財、史跡名勝文化財に指定されている。ちなみにお座興だが、狂歌に「菜もなき 膳に哀れは知られける しぎやきナスの秋の夕暮」とある。しぎ焼きナスを作ってくれた母に言って怒られたのを覚えている。
それから西行は鎌倉へ立ち寄った。鶴岡八幡宮の参詣にきた源頼朝が、鳥居付近を徘徊していた僧が目にとまり、あやしんでたださせると、素性がわかり、早速御所へ招き、歌道、弓馬の道をたずねた。鎌倉時代の正史ともいえる吾妻鏡にその状況が掲載されている。実話と思われ少し長いがご判読ください。
『文治2年(1186)8月15日 二品(にほんー頼朝のこと)鶴岡宮にご参詣。しかるに老僧一人鳥居の辺に徘徊(はいかいーうろつくこと)す。これを怪しみ、景季(梶原)を以って名字を問はしめたまふのところ、佐藤兵衛尉憲清法師なり。今は西行と号すと云々。よって奉幣以後(参拝後)、心静かに謁見を遂げ、和歌のことを談ずべきの由、仰せ遣わさる。西行承るの由を申さしめ、宮寺を廻り、法施(ほうせー読経、説教をして仏法を与えること)を奉る。二品(頼朝)かの人を召さんがために早速に還御す。すなはち営中に招引し、御芳談に及ぶ。この間、歌道ならびに弓馬の事に就きて、条々尋ね仰せらるることあり。西行申して云はく、弓馬の事は、在俗の当初、なまじいに(うかつに)家風を伝うといへども、保延3年(1137)8月遁世の時、秀郷朝臣より以来九代の嫡家相承(ちゃっけさうじょうー跡継ぎに代々伝わる)の兵法は焼失す。罪業の因(もと)たるによって、その事かつて心底に残し留めず。皆忘却しおはんぬ。詠歌は、花月に対して動感するの折節、わづかに三十一字(みそひとじー和歌のこと)を作るばかりなり。全く奥旨(おうしー学問宗教などの奥義)を知らず。しかればこれかれ報へ申さんと欲するところなし(お役に立つことはない)と云々。しかれども恩問(おんもんー頼朝の質問)等閑(なおざり)ならざるの間(いろいろ真剣に質問した)、弓馬の事においては具さ(つぶさー具体的に)にもってこれを申す。すなはち俊兼(藤原)をして、その詞(ことば)を記しおかしめたまふ。縡(こと)終夜を専らにせらるると云々。(徹夜で話を聴いた)』
弓馬・歌の道を話す西行と、京都育ちの頼朝が望郷の思いを込め、夜を徹し熱心に聴くすがたが目に浮かぶ。西行も計画的に頼朝に逢い、奥州へ勧進の道中安全の保障がほしかったのではないか?なお、深読みすれば京都の情報と、西行が奥州藤原氏の縁者と聞き、頼朝は後に行う奥州征伐(奥州藤原氏攻略)のための情報収集もあったのではないか?
『同8月16日 午の刻(うまのこくー12時ごろ) 西行上人退出す。しきりに抑留すといへども、敢えてこれに拘わらず。二品、(頼朝)銀作(しろがねづくり)の猫をもって贈り物に充てらる。上人これを拝領しながら、門外において放遊の嬰児(えいじー子供)に与ふと云々。これ重源上人の約諾を請け、東大寺料に沙金(しゃきんー砂金のこと)を勧進(かんじん)せんがために奥州に赴く。この便路をもって鶴岡の巡礼すと云々。陸奥守秀衡入道(奥州藤原氏第三代)は上人の一族なり。』
西行の無欲恬淡(てんたん)の面目躍如か。はたまた老生の愚考、道中、重かったので手ばなしたのではないか。しかし、当時は銀の方が値打ちがあり、小金(こがね)咲くといわれた奥州で勧進目的の砂金と取り換えればよかったのに、と考えるのは貧乏人のひがみか。とにかく、吾妻鏡に出てくるのだからもったいない本当の話だろう。
話変わって、頼朝の意に反し勝手に官位をもらい、お尋ね者になった源義経の愛妾静御前が義経と吉野で別れ捕らえられて、鶴岡八幡宮社前において頼朝、妻政子の面前で臆することもなく義経を恋いこがれた歌を詠みながら舞ったと吾妻鏡にある。
「よし野山 みねのしら雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこひしき」
「しずやしず しずのおだまき繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
これに頼朝は激高したが妻政子にたしなめられる一幕もあった。話は関西、上記吉野山へと移る。かつて老生夫婦は、近鉄、ケーブルと乗り継ぎ花の吉野山ならぬ秋深い粉雪舞う寂しいときに入山した。当時それからは蔵王堂を経て奥千本まで登るのに全部徒歩であった。奥千本の金峯神社を越え、そのまた奥に義経が隠れ、追っ手にかこまれ天井をけ破って大峰山方向へ逃亡したといわれる蹴抜けの塔の古跡に立ち寄り、さらに細い急な山道(今は石畳)を30分ほど登り、少し下った平場に、西行が文治年間に3年もの間隠遁していた西行庵にたどりつく。少し下には苔清水(こけしみず)という名水がしたたり落ちている。現在は、5m四方ぐらいのうす暗い庵(いほり)の中に西行の木造が鎮座している。やっと着いたわが夫婦はこんな山奥で食事はどうしたのかな?寒さにはどうしたのか?当時の建物はどんなだったか?世捨て人の生活に息を呑む。ここで西行の「山家集」にある吉野の歌は詠まれたのだろう。失恋と散る花、なんと因果なことだろう。後世芭蕉も立ち寄っている。ちなみに吉野は壬申の乱(天武天皇政権収奪の乱)に関係したところだが、西行の時代の吉野はまだ南北朝(後醍醐天皇の吉野行宮)以前であった。
「とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでも なきすみかかな」
「露とくとく こころみ 浮世 すすがばや」(後世訪れた芭蕉の句)
「吉野山 こぞのしおりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねん」
「吉野山 やがて出でじと思う身を 花散りなばと 人や待つらん」
「青葉さへ みれば心のとまるかな 散りにし花の 名残と思えば」
建久元年(1190)2月16日西行は、河内弘川寺で入滅。享年73才、願いはかなわなかったが晩年次の歌を詠んでいた。
「ねがわくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
(参考文献) 全訳 吾妻鏡 貴志正造訳注 新人物往来社
奈良県の歴史散歩 山川出版社
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