銀座一丁目新聞

追悼録(

歌人西行を偲ぶ

柳 路夫

西行(元永元年=1118年~文治6年=1191年・享年72歳)知ったのは小学生の頃、正月に家族と「百人一首」のかるた取りをしたからである。

「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」

西行は23歳で北面の武士をやめて僧侶になる。辻邦生著「西行花伝」(新潮文庫)には白河院の寵愛を受けた女院(待賢門院璋子)と西行の釣殿での逢う瀬を流麗な文章で綴っている。西行にとって「それが初めての恋であり最後の恋であることを知っていた」と記す。釣殿を出たときの西行は歌う。

「弓張りの 月に外れて 見し影の やさしかりしは いつか忘れん」。

西行は歌会に顔を出したり歌の名手と目される人と知り合ったり歌人として知られるよりも歌を読み出す心を豊かにするように努めた。「歌は枝葉を飾り立てて良くなるものではない。胸の内からこみ上げてくる真の高揚を言葉の網目で捉えるのだ」と語ったという。俳句の世界でも「自分の思いをそのまま吐き出せ」と言われる。

「西行花伝」は「九の帖」で恋の仲立ちをした堀川局に西行の恋の歌の数々を紹介させる。堀川の局は女院こと待賢門院に西行が出家したのは「森羅万象を一層美しく見るために浮世を離れる」と伝えたという。

「雲晴れて 身にうれへなき 人の身ぞ さやかに月の かげは見るべき」
「捨てて後は まぎれし方は おぼえぬを 心のみをば 世にあらせける」
「もの思えども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契りかな」

待賢門院にせがまれて さらに西行の歌を聞かせる。

「月にいかで 昔のことを 語らせて かげに添ひつつ 立ちも離れじ」

「月が物語る昔の影」は待賢門院しかない。待賢門院は述懐される。「愛欲は結局愛欲でしかなかった。最後に西行に巡り会えた。浮世での愛の契はただ一度しか交せなかったけれどそれ以上の誓いを交わせました」これ以上の愛の告白はない。

その西行が伊勢神宮を詣りして次の歌を読む。

「何事の おはしますかをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」

西行は出家して諸国を回りその範囲は東北から九州まで及ぶ。晩年常に死を意識した。「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と釈迦の入寂の日を願った。陰暦の2月26日になくなる。

「古希にして残る煩悩西行忌」(堤原保貞)と私も読みたくなる。その西行の「何事の…」の歌に違和感を覚える。歴史家で美術史家でもある田中英道氏は「死は論理でなく体で感じる何事かです。この何事かは伊勢神宮の崇高さを語ったものだと言われているがこれを死と置き換えても良いと指摘される。日本人はどんな人でも死ねば佛となり神になる」と解釈する。なるほどと思う。私は靖国神社を参詣するたびにこの歌を思い出す。同期生も13人祀られている。すでに仏であり神である。そう思えば納得できる。

「春の夜の 一度の契 深く秘め 影に添いつつ 月語りけり」(詠み人知らず)