2014年(平成26年)12月1日号

No.628

銀座一丁目新聞

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茶説

安部公房作・俳優座の「巨人伝説」の示すもの

 牧念人 悠々

 安部公房原作・真鍋卓嗣演出・俳優座の「巨人伝説」を見る(11月12日・俳優座劇場)。観客席は満員であった。考えさせられたお芝居であった。初めに流されたテロップの文句「野菜がよく育つためには、百姓が野菜についての豊富な知識を持っているだけでは充分ではない。同時に、野菜の方で、百姓の目的について全く無知である事が必要である」。難しい言葉だ。私は「野菜」を民衆、「百姓」を権力者(政府)と捉えた。昔「知らしむな,寄らしむべし」として国を治めるのを要諦としたからだ。安部公房の言葉を借りると、現代社会でも無責任な倫理が支配している。その無責任な倫理が一見あまりにも平凡な日常の営みに見えながら、裏を返せば実はたまらなく不気味でグロテスクな世界であることをこの芝居で書いてみたかったという。「巨人伝説」の巨人とはそうした無責任の倫理の象徴だと説明する。とすれば、戦前も戦後もこの世には「巨人」が罷り通っているという事を安部公房は風刺したかったわけだ(安部公房は平成5年1月、68歳で死去)。

 登場人物は15人。大貫忠太(戦時中駐在所巡査・中野誠也)、簡易食堂の女主人(川口敦子)、その息子敬一(田中茂弘)、戸田音吉(戦時中の村長・小笠原良知)、木村忠弘(戦時中の助役・庄司肇)、脱走兵士(蔵本康文)、青年A(小田伸泰)、青年B(仙名翔一)、青年C(渡辺聡)、娘A(小林亜美)娘B(荒木真有美)老人(可知靖之)、若い女房(安藤みどり)、セールスマン(脇田康弘)、住職(遠藤剛)。自然とお芝居に吸い込まれていったのは俳優たちの演技が巧まずして上手であったということになろう。

 場所、ある北国の村。時、第二次大戦の冬、現代の夏。ほぼ交互に出てくる。昔と今を比較考量するうえで分かりやすい。舞台では女主人と大貫を軸として敗戦から戦後15年間で起きる出来事が繰り広げられる。しかも昔も今も変わらぬ「無責任な倫理」が罷り通る。

 大貫のセリフに「無責任な倫理」がそのまま出ている。「音吉つぁんが、まあた村長さ立候補すたつうでねぇけ…時計の針が,さかさままわりかけたようなあんべぇだ・・・・そいでおらあ、思っただよ。おらたづも昔のつづき、はずめるべぇ・・・」(戦時中、闇商売をしていた女主人と駐在所の巡査だった大貫とは持ちつ持たれつの中で結婚を言い交していた)。大貫は時には奇妙な「ダイダラ法師のまじない」を使い気持ちを大きくする。

 「これで、このままで、良いのか」と原作者は問う。元村長は立候補して平和を唱え、澱粉工場を誘致して村の繁栄を約束する。有権者が「外見と結果だけで判断する」のはいつの時代でも変わらない。元巡査は昔のまま、つきあいを始めようという。戦時中は村から脱走兵を出すことを恐れ無実の村民の家を焼いて事を収めた。大貫は脱走した自分の息子が天井裏でもよいからというのを庇わず、自首を勧めて追い返す。息子の足跡を箒で掃いて消す。息子は鉄道自殺する。残した言葉「…消えねえだ…足跡は消えねえだ・・・消えねぇだよ・・・・」は意味深長である。良心は、人としての道は消すことができるものではない。大貫もいたたまれずに村から出奔する。女主人の息子は不具になった上、両目を失明して復員、ハーモニカ工場に勤める。戦後、村も民主主義の世の中になった。それなのに村の雰囲気は一向に変わらない。権力者の志向はいつまでたっても同じ。「元村長」の姿に「時の首相」を見るか、「会社の上司」を見るかはあなた次第である・・・

 最後に女主人の息子は母親が大貫と自分とどちらをとるか二人の前では決めかねるだろうと二人で線路端の崖の上に出かけて足を滑らして列車にひかれて死んでしまう。大貫に「あんたは人の気持ちのまあで分んねぇ男だなあ…」と言った女主人の前に、息子の遺体体が担架で運び込まれてくる。戸田音吉の選挙運動の連呼が聞こえる・・・お芝居は幕となる。この「巨人の伝説」に答えを出すのは私たちである。

 帰り、六本木駅で乗った新宿行き電車の中で両側4人座れる優先席が若者で埋まっていた。乗ってくる年寄りに席を譲ったのは一人だけであった。後の7人は知らん顔であった。いつのころからか日本人は老人をいたわらなくなった。ささやかなことだが「無責任な倫理」がここでも罷り通っている。よく考えれば、そこには「不気味でグロテスクな風景」が展開されているのだが今や誰もそれを不思議と思わなくなっている。政治の世界ではもっとひどいのではないかと思うと怖くなる・・・・