花ある風景(543)
並木 徹
小説「双練」にみる59期生の志
同期生小田暁君の長男・俊輔さんがこのほど『双練』を自費出版した。航空士官学校に進み満州で操縦訓練に励んだ父をタイムスリップ形式の小説で描いたものである。戦時中の父の志を世に知らせるとは大変親孝行な息子さんである。私は陸士本科時代(兵科・歩兵)を描いた本(100冊)を出して息子・孫に送ったが反応はにぶかった。
陸士59期生の航空は地上兵科の同期生より6ヶ月早く予科を卒業した。日本で米軍の空襲が激しいので昭和20年4月満州の各地の飛行場に分散、操縦の訓練をした。敗戦のためその志は挫折した。小田君は第2生徒隊23中隊に属し、同期生108名とともに重爆撃機の操縦訓練のため牡丹江の南20キロにある温春飛行場へ配属された。息子さんは温春飛行場跡まで足を運んでいる。そうそうできることではない。「温春駅から北に約5キロメートル、牡丹江のながれから逸れて平原に足を踏み込んだところに、朽ち果てた航空機格納庫に隣接し幅20メートルほど、長さ5百メートルほどの帯状の平たんな場所が姿を現す」それが父・暁さんら同期生の夢の跡であった。題名の「双練」とは彼らが使った飛行機から由来する。同期生たちはユングマン複葉練習機の操縦を終えた後、99式高等練習機による操縦と変わった。この飛行機が双発であったことから「双練」と呼ばれた。因みにこの99式高等練習機は沖縄特攻に17機も使われている。
「訓練は重爆へ生え抜きの武藤中隊長(重爆の名パイロットと言われた23中隊長・佐藤重由少佐=51期=がモデル)の下、歴戦の操縦下士官、若い特操出身の少尉などが教官になって進められた。生徒たちは、切迫した情勢を肌で感じつつ、南の海に散華してゆく先輩たちの死屍を乗り越え、あとに続かんものと『その日』を想定しつつ飛行訓練に没頭していた」
温春でも事故が起きた。小説では中隊のムードメーカーのエノケンこと江川健一郎候補生が殉職する。今際の一言は『かあちゃん』であった。昭和20年6月15日である。福島宏君が徳田少尉と同乗、離陸直後 エンジン停止により高度20メートルぐらいから錐もみ状態で機首より地上に激突、炎上した。二人とも燃料をかぶり、手のほどこしようがなかったといわれる。福島君は他の航空の同期生13人とともに靖国神社に祀られている。
小説の主人公小川がエノケンの遺品を整理していたらエノケンの詩が出てきたとある。「夢に見る父母、夢に見る友、その身は千里の海を越え、その声は重丈たる山にかくる、父母は宜きかな,友はよきかな」。この詩は平安鎮で殉職した日野宜也君の作である。作曲されてCDにもなっている。
昭和20年8月9日、ソ連参戦。武藤中隊長の行動は速かった。「即座に生徒全員を双練に乗せて敦化に空輸し、待機していた無蓋貨車に乗り換えさせて吉林へ、そして列車で新京,安東、新義州を経由し、釜山からは渡満したばかりの60期生とともに引き揚げ船興安丸で8月22日には山口県須佐沖に届ける早業であった」見事と言うほかない。これには理由があった。大韓航空機を操縦中タイムスリップして日本軍の捕虜となった恭介が武藤中隊長に頼まれて高性能の無線機を作りソ連軍の暗号傍受に成功していたからであった。ほかの飛行場では中隊長が不在であったため帰国がうまくいかず侵入してきたソ連軍に捕虜になりシベリアに抑留された同期生が出た。
武藤中隊長はユングマンを操縦して牡丹江に向かうソ連軍と戦車など軍事機材を満載している列車に突入して戦死する。「恭介は日本陸軍将校の誇りを知った」と記す。父からも話を聞き他の文献も参考にして本書を書き上げたのであろうが実にうまくまとめている。航空に進んだ同期生の気持ちもよく出ている。
著者小田俊輔が「今を遡ること67年前のこの地に、遠く離れた祖国を守るため、飛行訓練に参集した青年の一群があった・・・」と前書きで述べた成果に盛大な拍手を送る。
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