2014年(平成26年)8月20日号

No.618

銀座一丁目新聞

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茶説

華麗なるジャポニスム展に酔う

 牧念人 悠々

 去る日、真夏の“夢の美術の国”に遊ぶ(8月13日)。田園都市線「用賀駅」で下車して歩くこと25分(案内図には17分とある)、その場所は世田谷砧公園の中にあった。世田谷美術館という。正面には「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展―印象派を魅了した日本の美」とある。入り口に入場券を買う人の列が並ぶ。会場内は大変な込みようである。展示作品148点。丁寧に見ていたら夜が明けてしまう。気に入った作品だけ感想を述べる。

 「ラ・ジャポネーズ『着物をまとうカミュー・モネ』」あまりにも有名な絵である。1876年・クロード・モネ作。大きさは231.8×142.3cm。見上げるほど大きい。宣伝ポスターにも図録の表紙に描かれた絵である。カミュー・モネが歌舞伎をデザインした衣装を身にまとう。首を右に傾げ右手に扇子を持つ。画面にはモネを取り囲むように団扇が16本描かれる。団扇には花魁・鶴などの絵がある。1876年の印象画展で脚光をあびた。この時、カミュー29歳、9歳の男の子の母親であった。クロードは36歳であった。この絵は当時として破格の値段の2千フランで売れた。やがて15万フランで転売されたという。同じ立姿の渓斉英泉の「鯉の滝登り打掛の花魁」(1830−44)をみる。瓜実顔の美人、頭に8本の飾り物、打掛には今にも飛び出そうとする鯉2匹。滝の飛沫まで描かれている。英泉の花魁は1886年の5月1日号の「パリ・イリュストレ」の表紙に使われ、ゴッホの「タンギー爺さん」の背景に収まった。江戸の花魁は礼儀作法から読み書き、茶の湯、諸芸百般に通じていた。蜀山人が「全盛の 君あればこそ この里は 花もよし原 月もよし原」と詠った。

 歌川広重の「名所江戸百景 する賀てふ」。安政3年(1856年)の作。33.5×21.8。江戸の町並みと富士山の絵である。古地図で「する賀てふ」を探すと、日本橋を北に越えて左側に「品川町」の次に「駿河町」がある。ここには紅梅屋、越後屋,若狭屋、赤穂屋などの老舗が軒を並べている。今と違って高層ビルがなかったし空も澄んでいたので富士山がよく見えたことであろう。駿河町の老若男女が行き交う真正面に富士山がある。この構図が斬新であったのであろう。ピエール・ボナールの「パリ生活の諸相より 『街路を見下ろす』(1894年)に影響を与える。葛飾北斎にも「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の絵がある(天保2年・1831年)。逆巻く波間からの富士である。多くの画家がその浪に感嘆する。

 広重の「東海道五十三次之内四日市三重川」(天保4年・1833年)はモネの「トルーヴィルの海岸」(1881年)に生かされる。広重は二人の人物を配して一本の木とともに風の強さを(人生の苦難もあらわす)表現したのに対してモネは人を描かず、中央に置いた一本の木に託して海辺の悠々たる自然の営みを描く。似ているといえば似ているし違うといえば違う。だが広重から影響を受けたことは確かである。こう見てくると日本の江戸文化は凄い。その伝統は今なお生きている。別に威張ることもないが、誇りとしてよい。この日本を悪く言う文化人が少ないのは残念である。

 最後にモネの「睡蓮」(1905年)。これも有名な絵である。ここに日本の影響は受けていないとみていた。ところがなんとモネは自宅に日本庭園の蓮池をまねて庭園を造っていた。蓮池には太鼓橋まであった。睡蓮の花言葉は「清純な心・信仰」である。歌人鳥海昭子は「屋根の影ののびて来たれば睡蓮の池恐ろしかりき」と詠んだ。思いがけなく夢の絵の国に遊んだ。知らない事ばかりであった。無知ほど恐ろしいものはないと猛反省した次第である。