廣島へ原爆第1号を投下する命令は、ポツダム会談が終わった昭和20年8月2日、米国戦略航空軍司令官からグアムの第20航空軍司令部に届けられた。米国が日本占領へ第一歩を踏み出す。「第20航空軍は8月6日日本の目標を攻撃する。第一目標は広島市の工業地帯。攻撃の時機は午前9時30分とする」。
原爆投下機はパイロットの母親の名をとって「エノラ・ゲイ号」と名づけられた。搭乗員は12名であった。その名前は次の通りであった。機長・操縦士:ポール・ティベッツ大佐、副操縦士:ロバート・A・ルイス大尉、爆撃手:トーマス・フィヤビ、レーダー士:ジェイコブ・ビーザー(長崎の原爆投下にも参加した)、航法士:セオドア・ヴァン・カーク、無線通信士:リチャード・H・ネルソン、原爆点火装置設定担当:ウィリアム・S・パーソンズ、電気回路制御・計測士:モリス・ジェプソン、後尾機銃手・写真撮影係:ジョージ・R・キャロン、胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード、航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー、レーダー技術士:ジョー・S・スティボリック。
この搭乗員最後の生存者であった航法士のヴァン・カークさんが7月28日米ジョージア州アトランタ近郊の高齢施設で亡くなった。享年93歳。生前「私は任務を果たしただけだ」語ったという。兵士は常に与えられた任務に忠実である。この気持を日本の兵士もわかってくれるであろうと、ヴァン・カークさんは付け加えた。
8月5日午前2時45分「エノラ・ゲイ号」は両側に観測機を従えてテニアンを飛び立った。テニアンは8月3日日本守備隊が玉砕したばかりであった。B29の日本爆撃基地にするために攻略したのだから当然かもしれない。それにしても米軍の行動は早い。
広島時間の午前8時15分、原爆は31600フィートの上空から投下された。航法士・ヴァン・カークは当時の投下直後の広島の模様を「何か例を挙げてその光景を描写せよといわれるならば、私は一つの瓶の中で黒い油が煮えていると書きたい」という(L・ギオワニティ F・フリード著 堀江芳孝訳「原爆投下決定」(原書房)。井上ひさしは演劇「父と暮らせば」の中で「爆発から一秒後の火の玉の温度は摂氏1万2000度じゃ、あの太陽の中心温度が6000度じゃけえ、あの時広島の上空580mのところに太陽が二つ浮いとったわけじゃ、人間も鳥も虫も魚も建物も石灯篭も一瞬のうちに溶けてしもうた・・」と主人公に表現させる。投下直後の被害状況はどうであったのか、広島市は一瞬のうちに壊滅、人口は34万3千人、死者・行方不明7万1379人、負傷者6万8023人、家屋全焼全壊約6万2千戸、家屋半鐘半壊約1万戸、罹災者約10万人。その後原爆病で亡くなった方もおられるので死者はほぼ20万人に達する。当時、広島は軍需工場が少なく補給廠倉庫があり昭和20年4月に設置された本土防衛のための第2総軍司令部(司令官・畑俊六元帥)があった。日本政府は8月10日スイスを通じてアメリカに原爆投下は国際法違反として抗議した。戦後69年、現在の原爆はヒロシマ型の20倍の威力を持つという。それが世界に5万発もある・・・。
(柳 路夫)
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