安全地帯(433)
−相模 太郎−
尼将軍北条政子
三代将軍源実朝の死後、京都より招請した頼朝の姪の子にあたる藤原(九条)頼経は幼く、将軍の職務は故頼朝の未亡人北条政子により行われ、尼将軍と呼んだ。執権は弟北条義時である。承久(じょうきゅう)3年(1221)5月15日、かねがね謀議をしていた京都朝廷はついに鎌倉幕府を討伐する挙に出た。まず京方の軍勢1000騎が幕府方の京都守護伊賀光季邸を襲った。光季は、執権義時の義兄にあたる幕府の重臣である。主従29騎は奮戦後、屋敷に火を放って自害した。実のところ、京都朝廷の後鳥羽上皇を中心とする公卿衆は前々から幕府打倒のため2万数千騎の軍勢を着々とあつめ鎌倉攻撃の機を窺がい、遂に機は熟す、追討の院宣を発令した。世にいう「承久の乱」である。朝廷は、当然東国武士が院宣に従うものと想定していた。
使者が早馬で4日後の19日正午ごろには鎌倉に到着した。(当時は、早くとも7日〜10日かかる)前々から朝廷の鎌倉幕府打倒という不穏な情報に接し、迎撃の準備に怠らなかった幕府は、急きょ御家人に非常呼集を命じた。居並ぶ御家人たちを前に、簾外に現れた政子は次のような大演説を行った。
「皆心を一にして承るべし。これ最後の詞(ことば)なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征伐し、関東を草創してより以降(このかた)、官位といひ、俸禄といひ、その恩すでに山岳よりも高く、溟勃(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。しかるに今逆臣の讒(ざん)によって、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(藤原)、胤義(三浦)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。ただし院中に参ぜんと欲する者は、ただ今申し切るべし」
(訳)「みな心を一つにして聞きなさい。これが最後の命令です。初代将軍頼朝が平家などを征伐し、関東に幕府を創って以来、朝廷の位や褒美といい御恩は山より高く、海より深く、あり難いと思っていますね。しかしながら、今、悪い家来たちの唆しにより、騙されて道義に合わぬ幕府打倒という後鳥羽上皇が命令を出された。勇者として有名になりたかったら、急ぎ、武家の首謀秀康、胤義等討って(上皇を名指しはしてない)源氏三代将軍(頼朝・頼家・実朝)の打ち立てた鎌倉を守りなさい。ただし、京都側へ付きたいものは申し出よ。」
伊豆の土豪、北条時政の長女として流人の頼朝を信じ、幾多の艱難を乗り越え、今、幼君頼経の名代、尼将軍として君臨している政子は、幕府の存亡をかけて乾坤一擲の勝負に出た。この、声涙下る獅子吼に呼応する鎌倉武士たちはエイ!オウ!の喚声をあげた。軍議の結果、鎌倉軍は義時の子、泰時を総大将に、東海、東山、北陸道より19万騎が22日早朝より京に向け進発した。
結果は、幕府軍の大勝に終わり、幕府は容赦なく、後鳥羽上皇を隠岐に、お子様の土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡へ配流、討幕へ加担したものすべて捕え、領地没収の上、公卿は斬刑、流罪、免職、謹慎。武士は殆どが斬罪、中には京都大番役(宮中警護に鎌倉より派遣された当番)として在住し、不本意にも京方についた鎌倉武士は悲運であった。一方幕府は、勲功のあった者に、領地を含む行賞を与え、権威は一挙に向上し、泰時は、京に六波羅探題を創設する。
嘉禄元年(1225)7月11日、さすがの尼将軍政子も寄る年波には勝てず「不食(じき)の病」にかかって波乱万丈の生涯を閉じた。墓所は鎌倉寿福寺の裏、わが子実朝と並んだやぐらのなかに眠っている。政子が開基の安養院には供養塔がある。四代将軍として頼経が政務を執ったのは政子の死の翌年、嘉禄2年(1226)であった。
(写真は筆者が実地踏査で撮影)
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政子の墓所(鎌倉寿福寺) |
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政子産湯の井戸(伊豆韮山) |
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後鳥羽上皇行在所、火葬塚跡(島根県隠岐) |
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承久の乱、摩免戸の合戦跡(岐阜県各務原市) |
(参考文献)全訳吾妻鏡(貴志正造訳)・鎌倉北条一族(奥富孝之著)共に新人物往来社
日本合戦史(奥富孝之著)岩波ブックセンター