2014年(平成26年)7月1日号

No.613

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花ある風景(528)

 

並木 徹

 

イギリス人プライスさんの活躍
 

 レジナルト・ホーラス・プライス(1889−1964)。イギリスの人なり。戦前、京城帝国大学、第四高等学校(金沢)、戦後、学習院でそれぞれ英語を教える。日本文学や禅にも詳しく、英語圏に俳句を広めた人として知られる。

 芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を「THE OLD POND A FROG JUNPS IN PLOP」と訳す。蛙を単数とする。

 夫人は京城でみそめた来島富子(1936年)。二人の娘に恵まれる。戦時中、神戸に抑留され、終戦で釈放されると学習院に職を求める。昭和21年元旦、昭和天皇は民主国家の指針と現人神否定の「人間宣言」の詔書を出された。この「人間宣言」が出されるまでの裏方として活躍したのがプライスであった。プライスは当時学習院が独立の私立学校として再発足するに当たり敷地などの折衝をGHQと行っていた。日本通でもあり学識も豊かということで社会教育局ダイク代将、バンカー副官、教育課長ヘンダーソン中佐らに信用され、付き合っていた。そこでダイク代将から昭和21年の元旦の天皇陛下の詔書として神格否定の御言葉を述べてほしいという「秘密メモ」を渡された。上司であった学習院院長の山梨勝之進(海軍大将・昭和14年10月から昭和21年10月院長・海兵25期)に相談した。山梨院長が石渡荘太郎宮内大臣に「秘密メモ」を示すと「こんなことを陛下に自発的に出していただきたい申し上げることは私としては忍びない」と断られてしまう。仕方なく山梨院長は宗秩寮総裁松平慶民子爵(石渡宮相の後の宮内大臣)に頼み込む。松平慶民から「秘密メモ」を受け取られた天皇は内諾された。話はさらに山梨院長から吉田茂外相を経て重光葵首相まで届き、重光首相が直々に英文案の下書きを書いた。前田多門文相、次田大三郎内閣書記官長らの協力もあって草案が出来たのは昭和20年12月28日であった。

 この「人間宣言」詔書について昭和天皇は次のように語っておられる。「あの詔書を出した第一の目的は五箇条のご誓文でした。神格(否定)とかは二の問題でありました。当時アメリカその他諸外国の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、それが五箇条のご誓文です。民主主義が輸入のものではなく、日本国民の誇りを忘れないよう示す必要が大いにあったと思います」(昭和52年の秋・那須御用邸での宮内記者会見より)。

 明治から大正へ時代が変わった際、雑誌に「大正青年の進路」と題して新渡戸稲造が「大正時代の青年はこの五箇条のご誓文を熟読してこれを実現する覚悟を要する」と激を飛ばしたのを記憶に留めておいてもよいと思う。

 プライスは浴衣がけで散歩する気さくな人物で、肉は大嫌いの菜食主義者。手足に蚊が止まってもそっと払う殺生嫌いであった。皇太子さまに英語を進講していた。プライスは昭和21年2月14日特別の計らいで昭和天皇に拝謁する。その直後、大金益次郎宮内次官に進言する。「3月中にアメリカ教育使節団の来日が予定されており、団員の拝謁があるらしい。その節、陛下のご発意の形で直接団長にアメリカ婦人の先生推薦を依頼されるとよいと思う。これは自分でGHQ内の情勢を察して、そう考えているのである」(寺崎英成著『昭和天皇独白録』文芸春秋刊)。この件について寺崎英成宮内御用掛は頼まれて然るべく調査していた。

 天皇は3月27日米教育使節団24名と合い、米国婦人の家庭教師の件を申し入れた。29日寺崎は山梨学習院院長とともに帝国ホテルに教育使節団長ジョージ・スタダートを尋ね正式に申し込んだ。この時、示された条件は「狂信的でないクリスチャン婦人、日本ずれしていないこと、年齢は50歳ぐらい」であった、時に皇太子さま12歳。アメリカで「プリンスの家庭教師」の公募になんと600人の応募があった。その時の条件は「住宅と自動車、召使、秘書つき。年俸2千ドル(当時約6万円・月給5000円)」であった。ちなみに当時公務員の初任給は4863円(昭和23年11月)である。選ばれたのはクェーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング。この人選について寺崎英成日記には『次官(大金益次郎宮内次官)曰く最近のヒットなりと』とある。

 昭和24年6月27日にはヴァイニング夫人がひそかに皇太子一人だけを連れてマッカーサー元帥に会う。この会見の中でブライスの事が話題に出て皇太子は『はい、プライス氏には会います。とても好きです。物知りで楽しい人です』と言っている。この会見はマ元帥による皇太子の英語会話テストの感があるが皇太子はそのテストに合格したばかりか元帥より「落ち着きがあり魅力的である」とほめられている。

 日本をこよなく愛したプライスは昭和39年、67歳でこの世を去った。

 辞世の句「山茶花に心残して旅立ちぬ」。