2014年(平成26年)3月10日号

No.603

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追悼録(519)

孫文を援助した梅屋庄吉

 中国の革命家孫文を援助した実業家梅屋庄吉のテレビドラマ「たった一度の約束」−時代に封印された日本人―を見る(2月26日・テレビ東京)。梅屋庄吉については話も聞き本も読んでいたが初めてみる映像は迫真力があり深い感動に襲われた。中国では孫文を「近代革命先行者」として近年「国父」と呼ばれる。その中国と孫文に庄吉と妻トクは無償の愛を捧げた。

  それにしてもと思う。今、中国側は日本の悪い面のみ強調している。中国の動画サイトでは日本人戦犯を標的にしたビデオゲームまでも公開する。日本人の神経を逆なでにする。無償の愛と心無い憎悪。どちらが日中友好に役立つか論ずるまでもあるまい。

  梅屋と孫文が出会ったのは1895年(明治28年)。梅屋27歳、孫文29歳。ジェームス・カントリー博士の紹介で孫文は香港で写真館を経営している梅屋と運命的出会いをする。孫文の「中国の未来のために腐敗した清朝を倒し革命を成功させるほかない」の言葉に梅屋は「君は兵を挙げよ。我は財を挙げて支援する」と男の約束をする。1895年は4月に日清講和が成り、三国干渉が起きる。5月台湾鎮定月台湾総督府開庁、10月に孫文が挙兵するが失敗、日本へ亡命を余儀なくされた。

  映像では革命軍からの武器注文書には小銃7000挺、弾子毎挺5百発、機関銃7門、山砲5門とある。また滋賀県八日市市の飛行学校で訓練を受けた革命軍飛行隊も紹介されている。梅屋の援助額は今の金に換算すると2兆円を下らないという。

  孫文が梅屋に贈った『同仁』の書が出てくる。「親しくともそうでなくても、同じように広く、平等に愛する」という意味である。梅屋はそれを実践した人物である。なぜこのように孫文を援助したのかドラマでは最後のシーンでその理由を語る場面が出てくる。1886年(明治19年)3月、アメリカの貨物船で日本を出たが、マニラ港から出た後船火事が発生、コレラに感染した中国人苦力が船長の命令で生きたまま麻袋に入れられて海に投げ捨てられるのを目撃して大きな怒りとショックを感ずる。もともと「人類みな平等」の信念を持つ梅屋である。その上、中国・中国人への同情心・愛着心人一倍強く、真摯に情熱的に中国革命を説く孫文と出会い、たちまち肝胆相照らし、男の約束をしそれを最後まで守った。

  孫文が宋慶齢と結婚式を挙げたのは1915年(大正4年)梅屋の屋敷の2階である。慶齢は孫文の秘書を務める姉・靄齢を尋ねて来日し、孫文と会ううちに恋に落ちた。取り持ったのは庄吉の妻トクであった。

  孫文は「革命未だならず」の言葉を残して1925年(大正14年)3月12日、北京で肝臓がんのために亡くなった。享年58歳であった。梅屋は孫文の思想と偉業を後世へ伝えようと思い孫文像を4基作り南京の中央軍官学校などに贈った。今でも中山大学などに残っている。

  梅屋庄吉は1934年9月千葉市で亡くなった。享年65歳であった。新聞は「中国革命の恩人逝く」とこぞって報じた。孫文が愛したという『同仁』という言葉を今こそ、日中双方がかみしめるべきであろう。

 

(柳 路夫)